北方(きたかた)心(しん)泉(せん)(嘉永3年・1850~明治38年・1905)、名をはじめ祐必といい、後に蒙(きざし)。加賀金沢の浄土真宗・常福寺の住職の子として生まれる。幼名を郁護法麿といい、号は心泉、雲迸、小雨、月荘、文字禅室、聴松閣、酒肉和尚などがある。
心泉の少年期から青年期にかけては、幕末から維新の激動の時代であったが、この期間、加賀の名僧石川舜台の慎憲塾で仏教学をしっかりと学んで過ごした。また明治2年(1869)に開講した松本白華の遥及社にも学んでいる。石川舜台と松本白華は共に浄土真宗大谷派を代表する僧侶で、明治5年には、成島柳北について漢詩、英語を学んでいる。
明治10年、心泉は清国布教事務掛として、浄土真宗上海別院に勤務した。布教活動を行いながらではあるが、中国清末の文人、書道家たちとの交流をしている。書は北碑学派の勢いが増し、金石趣味が定着しつつある状況で、心泉の交流した書道家も北碑学派といわれる人々であった。日本に北碑学派の書というものを紹介したのは、明治13年に清国公使随員として来日した楊守敬ということではあるが、心泉はこれとは別に北碑学派書風を研究していたということになる。
心泉には兪樾(曲園)との交流もあった。兪樾が撰者となって刊行された、537人の日本人の漢詩5319首を収録した『東瀛詩選』の編纂の際しては、最大の日本側編纂企画人である岸田吟香との連絡係をつとめている。心泉自身の作った漢詩11首も採録されている。
岸田吟香(1833~1905)という人は、実業家、ジャーナリスト。たびたび中国上海に渡り、事業を興している。東亜同文書院設立にも関わっていて、この東亜同文書院には明治41年、川谷尚亭も一時留学している。画家・岸田劉生の父である。
明治16年(1883)、心泉は肺を患い帰国することになった。長崎で療養生活をし、翌17年に郷里金沢に帰った。帰郷後、友人である漢学者・三宅真軒の助言を得て、本格的に書を学びはじめた。金沢にある自坊の常福寺内に、書斎として「文字禅室」を構えたのである。上海から持ち帰った書籍法帖類に加え、翌年からは上海に住んでいた岸田吟香や円山大迂に依頼して、書道関係の書籍や古碑法帖類と大量に購入している。円山大迂(天保9年・1838~大正5年・1916)は篆刻家。名古屋の造り酒屋に生まれ、京都で貫名菘翁の門人となって経学書を学んだ。明治11年に上海に渡り、除三庚、楊峴に師事して篆刻を学んだ。印譜『学步盦印(がくほあんいん)蛻(ぜい)』がある。
明治23年、心泉は第三回内国勧業博覧会に出品し、入賞した。その後、日下部鳴鶴、巌谷一六、中林梧竹らとの交流が始まった。
日下部鳴鶴の『鳴鶴先生叢話』の中に、北方心泉についての一文があるので紹介する。
書は各體を善くして自ら一家を成した。余の紹介で同好會に出て従横揮洒したので、東都の文人も目を瞠つた。三十八年に五十六歳で歿したが、其前年余が加州山中溫泉に坐湯して居る時に訪ねてくれた。其時余は二階に揮毫して居つたに、階段でごとん〳〵と大きな音がした。それは心泉が中風で歩行の自由を缺き、息女が手を引き大きな杖を策いて上つて來る音であつた。それが永別であつた。明治の書道史には沒すべからざる人である。
明治37年、病気のため右半身不随となったが左手で書き続けたという。心泉は翌38年7月28日に没した。享年56歳。弟子には篆刻家の桑名鉄城がいる。
常福寺内「北方心泉記念室」の展示室
左・日下部鳴鶴蔵 右・心泉晩年の篆書半切二行幅