樋口銅牛(ひぐちどうぎゅう)(慶応元年・1865~昭和7・1932)名は勇夫。銅牛は号で、別号を得川、東涯という。福岡県久留米市の出身。父は旧久留米藩士の漢学者で、名を樋口源深といった。

銅牛は初め、鹿児島県立第二中学(現在の甲南高等学校)で教鞭を執ったが、すぐに「九州日報」の記者となった。そして2年後の明治41年(1908)、東京朝日新聞社社会部に入社。大正元年(1912)には退社したが、後は早稲田大学、國學院大学、法政大学等の講師を務めている。朝日新聞在社中には「朝日俳壇」の選者を務めるなど、一般的には俳句に関する研究者としての評価が高く、『俳句新研究』などの著書もあるが、『漢字雑話』等の漢字、漢文学に関する読物も連載した。中でも『七十二候印存』は、明治43年秋から連載された。七十二候とは、1年を360日とし、自然現象の推移によって5日ごとに区分しそれぞれの季節を表したもの。『礼記月令(らいきがつりょう)』に「五日を一候として七十二候、三候を一気として二十四気、六候を一月として十二月とし、七十二候、二十四気、十二月がそれぞれ一年になる」とある。

『七十二候印存』は5日ごとに、当時の篆刻家、書家、文人が「七十二候」の一印を刻して連載された。大正元年秋のことである。

この「書と書人」に登場した書人の数名も、刻した印が掲載されているので、下にご紹介しよう。
図版として掲載したのは、『七十二候印存』(平成18年・字典舎刊)によった。

印文解説 北川博邦
刻者紹介 樋口銅牛