前田黙鳳(まえだもくほう)(嘉永6年・1853~大正7年・1918)名は圓、字は士方、黙鳳は号で、龍野人の別号がある。播州龍野(現在の兵庫県たつの市)に、藩士前田忠作の次男として生まれた。明治6年、東京に移り、9年に書肆博文社の手代となった。黙鳳20歳のことである。その後、日下部鳴鶴(1838~1922)、巌谷一六(1834~1905)、中林梧竹(1827~1913)、小野湖山(1814~1910)、金井金洞(1833~1907)、石川鴻齋(1833~1918)依田学海(1833~1909)等と交わり、明治15年(1882)には山中市兵衛と共に京橋南鍋町に漢学関係の書籍の専門書肆「鳳文館」を設立した。『康煕字典(こうきじてん)』、『佩文韻符(はいぶんいんぷ)』、『資治通鑑(しじつがん)』などの中国書籍の翻刻本や、漢詩文集、書画集などを発行している。これらの出版物著者としては、当時黙鳳が交際していた有名書画家が名を連ねている。前述の人たちも他、副島蒼海(1828~1905)、岡本黄石(1811~1898)、森春涛(1819~1889)など錚々たる人物の名が見える。「日下部鳴鶴(3)」の時にふれた『段氏述筆法』(清・段玉裁著)も、ここ鳳文館から発行されている。詳しくはそれをご覧いただきたい。

明治21年(1888)、経営が悪化し、漢学書専門書肆の鳳文館はついに廃業となってしまった。それを悲しんだ知己の友人達は、沢山の漢詩、書画を黙鳳に贈った。黙鳳はそれ等を纏めて『黙鳳帖』を編集し、両国中村楼(後の「美術倶楽部」)で開催された閉館記念会で出席者に配布した。

閉館式は盛大に行われた。鳳文館に残された品々をすべて叩いて資金を調達したという。式と宴が行われた会場には全国の諸名家から贈られた多くの書画が展示され、また、日下部鳴鶴、巌谷一六、三島中洲(1831~1919、二松學舍の設立者で比田井天来の先生でもある)、野口小蘋(1847~1917、女流画家)などの有名書画家による揮毫会も行われた。この会の出席者は700人にも及んだという。実に盛大な幕引きの会であったが、この明治中期の漢詩文界の衰退を象徴している事柄であったと言える。その後黙鳳は、作家として書の研究に没頭し、雑誌『書鑑』を発行している。古碑法帖類の掲載図版が多く、図版の内容は格調が高く、資料性が評価されるものが多く含まれている。明治41年、杉渓六橋(すぎたにりっきょう)(1865~1944)、野村素軒(1842~1927)らと「健筆会」をおこし、書道発展の為に尽力している。

前田黙鳳書画屏風半双二種