河井荃蘆(かわいせんろ)(明治4年・1871~昭和20年・1945)、本姓は川井、名は仙郎。京都寺町の名印判屋・川井仙右衛門も長男として生まれる。幼きより書学、詩文などを学び、20歳近くになって篠田芥津の門下となって篆刻を学び始める。後、呉昌碩への敬慕の念が深まり、30歳の時の渡清を皮切りに、十数度中国の呉昌碩を訪ねている。明治36年には、京都の実家を弟の河井章石(篆刻家)に譲り、三井高堅(三井家の当主・書画骨董文物の蒐集家としても有名)の庇護を受け三井家邸内に寓居した。大正3年、呉昌碩が最初の社長となった中国杭州の西泠印社の設立発起人の1人となり、社員となった。第二次世界大戦の末期、昭和20年3月10日東京大空襲により、荃蘆は収集した膨大な名品と共に不帰の人となった。

以前、友人のH氏から、荃蘆が生前に所蔵していた趙之謙の名品を並べた作品展の写真を見せて貰った。数十点展示されていたが、いずれも既刊の図録では見たことのない御品ばかりで、しばらく見入ってしまった。東博や各有名コレクターの方々の所蔵されている作品とレベルが違うのである。これ等の作品が、空襲で焼失されずに遣っていたら、どうだっただろうかと考えてしまった。

前々回に樋口銅牛が編者となった『七十二候印存』を紹介したが、その中にも荃蘆も登場している。三月の清明第二候に「田鼠化為鴽(ふなしうづら)」とある。銅牛の解説に、

刻者は京都の人。東京に住す。全石碑板の学に於いては方今刻者の右に出づるもの莫し。印史に精しく、小学の書を渉猟耽讀すること刻者の如きは稀に見る所也。屢く南清江浙の間に遊びて篆刻を呉蒼石に問ひ、漢銅印を宗として徽派浙派の外に一新生面を開けり、刻者の名は遠く北京官人の間に知らる。他人の刻する所一も意に中るものなし。其言ふ所鑿々典據あるを以て、人陰に平なる能はざるも、陽に服従せざるを得ざる也。明治四年生。

 『七十二候印存』より田鼠化為鴽



明治4年は比田井天来(1872~1939)の生まれる前年。後に荃蘆は天来の印を多く刻している。現在、天来記念館に収蔵されている印の中で「比田井象之、畫沙、沙上盟主」の印について西川寧先生は、「楕円印は石は違うが三顆一つ箱におさめてあった。もとより同時の作に違いない。側款がないので何年の作かはっきりせぬ。大正十年、先生五十一歳前後の作らしい。先生の刻印の最頂上にあるものだ。恐ろしく水ぎわだった、恐ろしく新鮮な刻である。刀の豪快な切れ味を、これ程臆面もなく出し乍ら、むねのふくらむような情懐をここまで盛り上げた。これは光緒-大正の印ではなく今日以降を指し示すものだと私は解している。古い超越趣味はこの印を若いと笑うかもしれぬ。はじめ目をみはった私も、その後あまりにはでなこの刀法に目をおおうた事があった。だが少なくともこの印は、これからの書の一つの進路を指し示していると思う。」この言葉は比田井天来の書の意味、方向、時代性をも語っている。
                                                 

 左・画沙   上・沙上盟主    右・比田井象之

                                                                                                                                                                                                                         




左・文行忠信                 右・臣鴻印




左・大朴             右・象之印信



 


左・象之             右・大朴山人



 





左・象之        中央・古道         右・曲則全