第23回 天来先生のおもかげ / 上條信山
門人の証言
上條信山の「信山」は、「信州の山」天来の命名です。 後に宮島詠士に師事しましたが、初めて上京して天来に会い、アドバイスによって自分の方向を決定したことが綴られています。
天来先生にはじめてお会いできたのは、昭和七年の二月であった。今からもう三十年前のことになる。当時中央には、わが郷土出身の天来・秋鶴の両先生がおられた。
(中略)
代々木駅から、二、三回曲がり角を通りながら五、六分も歩くと、人家もない広々とした地域が展開し、そこに巨大な書学院の建物が見え、立襟の大きな角柱がくっきりと姿をみせていた。
内堀維文先生からいただいた紹介状を手に持って、書学院の玄関をたたいた。先生にお会いできるのかしらんと思うと、いなか育ちの私はすっかり固くなっていた。
「おはいりなさい」と、年のころ五十に手がとどくかとみえる、角ばった顔に黒いチョビひげのあるかたが、羽織はかま姿で広い玄関さきに立っていた。剌を通じると、「どうぞこっちへ」と先生のおへやに案内してくれた。机上におかれた法帖に目をそそいでおられた先生は、良髭も美しく、堂々たる風貌、一見、唐の太宗を思わせるものがあった。
来意を中し上げると、「ああ内堀先生から伺っていた。信州はどこだ」とむぞうさにお聞きになった。「松本です」「そうか、松本なら秋山白巌翁がおられるが知っているか」と童顔をほころばせながら聞かれた。固くなっていた私は急に安堵した。それはどうお話ししようかと考えていた中心問題に、先生からさっさと切りこんできてくださったからである。秋山先生はよく知っています。先生のお宅に塾生としてごやっかいになっておりましたから......。それに先生からとくにご温情をいただき、実は秋山家の養子にくるようにということ、とくに先生の中国より集められた貴重な資料を中心に、松本で書道の研究をつづけていくようにということ、それから秋山書塾での勉強のしかたなどをお話しし、この後どのように進んだらよいかを率直にお尋ねした。
静かに私の話を聞いてくださった先生は、何か書いたものを持ってきたかね、あったら見せてもらおうかといわれた。いよいよ私の書における能力というか、将来といったものをためされるような気がして、急におそろしくなった。しかし、白巌先生からいつもほめられていたし、自分としても白巌先生の手本なら、まったく同じように書けると思っていたし、それに白巌先生は日本きっての支那通であり、長年中国にわたって、清朝の大家徐三庚にも直接師事しておられたかたでもあるから......と、そんなことを思いながら、やや自信とほこりをもって白巌先生の手本によって清書した李白の桃李園序の六字書数葉を先生の前にそっと差し出した。
先生はじっと私の清書をにらむようにしてご覧になっていたが、その第一声は「これはいかん。君は根本的にやりなおししなければならない。おそらく正常な姿にかえるまでには三年はかかるだろう......」だった。わたしは一瞬にして谷底にたたき落とされてしまった。書というものは清朝ではだめだ。唐以前にさかのぼらなければいけない。現代の大家のものを臨するのもよいが、むしろ現代の大家をつくった根源に着目しないと、たちまち格の下がったものになってしまう。まず唐の四大家をやれと立ち上がって、細長い一冊の手本を机上におかれた。これが有名な「昭代法帖」第一集、欧陽詢の楷書であったのである。まずこれをやってごらんなさいといって、かたわらの朱筆をとられ、黄唐紙でつくられた先生専用の手本用紙に、開巻第一ページの鳳飛来臨の同字を書いてくださった。その清勁痛快な先生の書きぶりとすばらしい新鮮な書風とは、今も私の眼底にきざみ込まれている。
比田井天来臨『欧陽詢九成宮醴泉銘』長いこと長峰で回腕により、ゆっくりと形をこしらえていた私にとっては、短峰のかため筆で、バリバリと歯ぎれよく颯爽と運筆される先生の姿は、異様のものに感じられた。筆をおかれた先生は、欧法の説明を二、三してくださったがさらにつけ加えて、ほんとうに書をやろうというなら、書の根本である漢学をやっておくことだ。字ばかり習ってみてもいい書はできるものではない。書には書巻の気といって、読破万巻という学問の裏づけがたいせつになってくる。まず文字がわからなければ書は書けない。字がわかれば文章がわかり、詩文がよめ、経書もわかることになる。経書に目が通れば、聖賢のことばにふれ、しぜん聖賢の魂にふれることになり、人間が内につくられることになる。そこにほんとうの書ができる。漢籍の勉強をやりたえ......と一介の書生である私に、じゅんじゅんと説いてくださった。春風のごとき温容であった。
「昭代法帖」の第一、二、三集と手本三葉とをいただいて、書学院の門を出た。その日の感激はいまなお忘れることはできない。偉大なる天来先生というより、むしろ郷土の先輩としての天来先生のありがたさといったものが、私の心にしみじみとしみわたっていた。
その年の春四月、私は思いきって職を辞して上京した。当時漢学の泰斗を広く擁していた大東文化大学に人学六か年間漢学を専攻することになった。今は故人となられた安井林堂先生・小柳司気太先生・篠塚隣先生・鵜沢聴明光生・土屋竹雨先生をはじめ、宇野哲人・諸橋轍次先生といった碩学鴻儒の声咳に接することができた。一方書は先生の指導を仰ぎ、いちずに六朝漢魏に遡源して、その惇乎たる玄味を味わうことが私の生涯の楽しみとなった。
博大なる先生の芸風にいよいよ深く接したいものとようやく内的体勢をととのえたころ、先生は突如昇天、慟哭いかんともするなし。しかしあの日の数時間によって、私の生涯を大きく方向づけてくださったその日の、書聖天来先生の偉大なるお姿を、今一度心底によびおこして先生とかたり、心からの感謝の祈りをささげたい。