比田井天来

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作品

偕楽

偕楽(24歳 佐久市立天来記念館蔵)
比田井天来が生まれ育った家は、代々名主をつとめた家。中山道の宿場町として活気にあふれていました。天来は子どもの頃から書を好み、古碑帖によって勉強していました。「偕楽」は24歳の作品で、天来を名乗る前、「淳風」という号を使っていました。

知足軒

知足軒(26歳 貞祥寺蔵)
26歳のとき、佐久の名刹、貞祥寺へ行ったとき、住職から室号を書くよう依頼されました。完成した作品を見て、住職は、上京してもっと勉強するように強く薦めます。上京したのはこの年の五月、記念すべき作品です。

聞雲野鶴 天籟書 花押

聞雲野鶴 天籟書 花押 (佐久市立天来記念館蔵)
「天籟書」となっている珍しい作品。淳風の後、天来の号を名乗る前に、天籟を使っていた時期があったのでしょう。日下部鳴鶴に入門してまもなくの作品で、ゆっくりと筆を運ぶ廻腕法の特徴がよくあらわれています。

雁塔聖教序

しかしこの頃、天来は廻腕法に疑問をもち、松田南溟とともに剛毛筆による新たな用筆法の研究を始めます。研究資料となった「雁塔聖教序」。研究の跡は、金と朱の圏点となって残されています。

作品05

43歳 個人蔵
大正二年から八年にかけて、歳を追うごとに作品は変化していきます。これは、中画宣全紙に書かれたもの。この年の代表作の一つです。

清厳

清厳(48歳・株式会社タツノ豪華楼蔵)
大正八年、弘前で書かれました。幅180cmの迫力あふれる作品です。筆をこすりつけたような豪快な「かすれ」は、古典の研究によってあみだした剛毛筆俯仰法の特徴です。

識分知足

識分知足(50歳代・佐久市立天来記念館蔵)
かたい毛の筆を用いた作品。文字の形に天来独特の意匠があらわれています。

至誠

至誠(59歳・望月小学校蔵)
天来の母校である協和小学校は、2008年に同じ地区にある他の3校と合併して、望月小学校になりました。体育館に掲げられている豪快な作品です。

質実
剛健

質実(望月高等学校蔵)

剛健(望月高等学校蔵)

五十歳代最後か六十歳頃の作品と思われます。ユーモラスな「質実」とダイナミックな「剛健」。高校生にもわかりやすい表現です。

養心王

養心王(個人蔵)
「これからは筆を鍛冶屋に打たせようと思う」と豪語するほどかたい毛の筆を使っていた天来ですが、63歳頃からふたたび柔かい毛の筆を使うようになります。筆法は同じ俯仰法。濃厚で豪快な味わいは、デモーニッシュとも評されます。

作品11

屏風(60歳代後半・佐久市立天来記念館蔵)
六曲一双屏風の右半分です。悠然とした筆運びは緩急をきわめ、生命感あふれる書の宇宙が生まれています。屏風という幅広の形式を活かし、風景画を見ているようです。

協和 正直 奉仕 明朗

協和 正直 奉仕 明朗(65歳・望月小学校蔵)
天来は65歳のとき、満州へ行きましたが、大連で書いたこの作品は本人も気に入り、同行していた大森万里氏に託して望月小学校へ届けました。

戊寅帖

『戊寅帖』に収録された作品
67歳1月、郷里の「慰霊之碑」ならびに生涯唯一の自選作品集『戊寅帖』所収の作品を揮毫します。天来の最初の弟子である上田桑鳩は、序文の中で、「作品の変化多様なこと、一作ごとに面貌を異にし、観者をして驚嘆せしむる」と書いています。しかし「老熟完成の域に達せられた」という表現に対して、天来は不満を示し、「これらは単なる一道程、一傾向に過ぎない」と語りました

放送会館

放送会館
同年2月、帝大病院に入院し4月末退院。8月再入院。11月以降は特別ベッドを作り、ベッドに寝たまま作品を書きました。これはNHKの依頼で書いたもの。

絶筆

右は絶筆、左は絶筆と同時期に書かれた作品。一字一字が切り離され、不思議な調和を保った、静かな作品は、もしもっと長命であったら進んだかもしれない、新しい書風を示しているように見えます。

絶筆短冊

絶筆短冊
逝去の前日、昏睡状態からふと目覚めた天来は、筆と墨を求め、短冊や瓢箪に次々と揮毫しました。二字が混ざり合って一字になったり、もはや正常な精神状態ではありませんでしたが、その自由無碍な筆致は、潜在意識下におけるシュールレアリズムと似た境地であったと思われます。

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