第15回 傍若無人の境地 / 田中一誠
門人の証言
田中一誠氏の手記、第二回をお送りします。 天来は大正2年に新しい筆法を発見し、5年から2年余、建長寺境内の正統庵に住んで研究に没頭しました。これはその当時の様子を物語る貴重な証言です。
私の家から徒歩で十分くらい離れていた先生のお宅は、小町の通商「お梅様」(鎌倉駅から徒歩5分)にあったが、先生ご夫妻とゆり子さん、千鶴子さん(東山紗智子)、厚さん、漸さん、洵さん、慈子さん、徹さん、それからお手伝いさん二人のにぎやかなご家庭で、お部屋は六室であったようである。
これは、私の母から聞いた話であるが、先生は44〜5歳のころ、建長寺の境内の二階建ての家に二ヵ年蟄居して、書学研究に没頭されていたのである。ヒゲも頭髪もボーボーとして、見るからに仙人さながらであった。
その時のエピソードにこんなことがあった。先生は徹宵机に向かっておられたことが多く、先生は昼と夜の区別を知らないのかと、近所の人々があきれたり、その勉強振りに驚いていたそうである。
また、こんなこともあった。お腹が空いたので、食事時間外に二階から下りてきて、お手伝いに食事を頼むと「先生は先ほど召し上がったようです」といったので、「ああ、そうであったかな」といって、そのまま、また二階へ上がって机に向かったそうである。
そのエネルギッシュで狂人じみた研究振りがあったなればこそ、一世を風靡した書家となられたのではなかろうか。
私は常日頃こんなことを考えている。太陽自体には、昼も夜もない。地球が勝手に自転しているので、昼と夜の区別が生ずるので、人間も昼と夜の区別を明確に して、はんこで押したような生活をしている人間は、まあ普通人の域から脱することはできないであろう。傍若無人といえば、すぐさま、没常識な言動を連想す るが、何事によらず、一頭地を抜き、その道を極めるには、この傍若無人の境地に達した人でなければ、到底名人とか達人にはなれるものではあるまい。天来先生の傍若無人振りには、ちっとも作意がない。実に自然である。そして稚気まんまんであるから、見る人には思わず微笑みさえ覚える。ともかくも、非常な努力家であったのには敬服するが、その反面、大芸術家としての先天性を多分に持っておられたことに思いを寄せるものである。
小琴先生は、阪正臣先生に書道を師事しておられたが、これまた、その勉強振りも並大抵のものではなかったようで、一家をなしたのも、夫君天来先生の蔭の力の大きかったことはいうまでもないであろう。
「小琴」という雅号のいわれについて、私はこれを知るよしもないが、お琴が好きで、長女の百合子さんとよく合奏しておられた。子どもさんたちは「オカーマ (お母さま)は小琴(しょうきん)ではないでしょうね。「コゴト」というのでしょう。いつも「お小言」が多いんですもの」といってみんなを笑わせていた。
私は先生にこんなことをお尋ねしたことがある。「先生はたいへんお酒が好きなようですが、『斗酒なお辞せず』という古語から百合子とおつけになったのです か。」そうすると先生は「一誠くんは、なかなかおもしろいことをいうものだ」といわれて、カンラカンラとお笑いになった。
先生は、来客があると、よくお酒を酌み交わしながら、いかにも愉快そうに歓談しておられた。また、お赤飯が大好物だった。
お好きなものはまだあった。それは、ふるさと信州山国の塩ブリ、それからマナー(菜)と鯉で、年末には必ずこれを取り寄せられ、お正月の祝膳をにぎわしておられた。
天来先生はよく私の家へおみえになった。何か思い出すと、それが夜半であろうと暁であろうと、そんなことは一向におかまいなしで、やってこられると、ツカツカと、必ず一番上座にきちんとお坐りになる。そしてマッチを求める。求められるままに出す。マッチを使い終わる と、すぐご自分のタモトに入れる。しばらくして、またマッチを求める。また出す。つけ終わると、それをすぐタモトに入れる。一時間に四つも五つもタモトに入れてケロリとしている。母も母で、その都度、黙って出していたので、実におもしろかった。
天神さま」の先生は、外出するときは、必ずきちんと袴をつけておられたが、それがどうも長すぎるのか、引きずって歩いているので、私の母は「先生はそのうちに、鉄道省からきっと表彰されるでしょうよ。先生はいつも長い袴のすそで、駅のプラットフォームを掃除しておられるのでね」と言っておった。