第5回 晩年の天来 / 田中鹿川
門人の証言
天来の生涯の中で、昭和10年以降は、社会的にも作家としても、もっとも充実した時期であると考えられています。しかしこの手記によって、実際の生活は多忙を極め、また体調も優れず、苦悩の日々を過ごしていたことがわかります。
鎌倉書学院の完成を祝う園遊会
昭和7年、天来先生の助手として、上野の東京美術学校に、毎週二日授業に出張した。これが教員生活の第一歩だった。先生は私を指導のため連れて行き、その給料は全部(30円)袋のまま私に与えられた。物価が高くなり、子どもが学校へ行き始めたので、この頃から毎月60円位の給料では少し苦しかったが、先生からの30円はとてもありがたかった。交詢社にも先生の助手としてお供した。
昭和10年、書学院はますます繁昌した。先生は「ナポレオンは2時間くらいしか寝なかったそうだ」と話され、書道研究のため、2・3時間寝るだけで勉強を続けられたので、神経衰弱を患い、何やかや心配事が多くなった。私も先生の看護に誠心誠意尽くしたつもりであるが、病気のため「雄太郎だけが頼りになる」などと悲観して言われたこともあった。昭和12年夏、7月7日に日支事変が勃発した。先生は昨年からの強度の神経衰弱でずいぶん悩まれていたが、前に起こされた天来先生還暦書会の揮毫に没頭されていた。鎌倉建長寺境内に華蔵院を再興し、その隣りに書学院を建て、静養を兼ねて東京と往復されていた。落成式は庭園内で園遊会を催し、盛大なお祝いをした。師範学校の勤務のときは、私もここに泊めてもらった。
大晦日の午後飄然と天来先生が拙宅に来られた。このところ種々複雑な事で、何かと誤解が生じていたが、いろいろ事情をお話すると誤解も氷解し、ご機嫌で晩餐を共にされ、家内中とも歓談をされた。食後気分が悪く嘔吐されたので、手当をしたり、真鍋医師を迎えて応急手当をしてもらった。やがてお宅から「先生がお留守では年越しができない」と使いのものが迎えに来たので、気分も直って喜んでお帰りになった。
昭和13年元旦にお伺いしたら、もう年始客4~5人とお元気で対談されていた。血尿が出るということで、慶応病院や帝大病院で診察を受けられた。療養のため温泉にもでかけられたが、全快されず、ついに春になって帝大病院に入院して手術を受けられた。退院当時はお元気で、たまたま大日本書道院第二回展を上野美術館で主催したので、ずいぶん活動された。やはり病後のため、それが無理だったのだろう。秋頃から鎌倉で床に伏され、年の暮にはすっかり衰弱されて、年を越せぬのではあるまいかと、ご家族および一門の心配は一方ではなかった。お体は不自由でも、寝たままで筆を執られれば、立派な玉作ができた。私はお枕辺に付き添っていて一枚いただき、ありがたく珍重している。画沙老人の落款があり、先生の絶筆の一つである。
年も押し詰まって、意識が朦朧となられ、元旦は重苦しい雰囲気の中で迎え、危険の一途であった。
昭和14年1月4日夕刻7時、ついに天寿を全うされて大往生を遂げられた。その夜、自動車で東京に帰り、喪を発表した。門下の慟哭は極まりなかった。1月7日、書学院庭内に天幕を張り、祭壇を設けてご遺体を安置し、仏式により告別式を挙行した。故郷の菩提寺の宝国寺住職山本顕誠師が導師となり、菅原管長国立正呉師、真如院主が侍僧としてしめやかに執り行われた。参列する者千数百人におよび、焼香の煙は絶えることがなかった。この日堀の内で荼毘に付し、鎌倉華蔵院の墓地に厳葬された。
法名 書学院殿大誉万象天来居士3月9日は、明治42年信州から上京し、天来先生方に身を寄せて以来、満30年の記念日であった。今は先生も世を去られ、私の尽くすことは終わったと思い、嗣子の漸さんに暇を乞い、小琴先生にお別れのご挨拶を申し上げた。
死を前にして、小康を得た時に書いた短冊。文字になっていない。
(後記)
父は40代から血圧が高く、昭和30年頃より心臓疾患で医者にかかり、常々健康保持に充分気をつけるように言われていた。
昭和35年に長らく勤務した恩給局を退職した頃より、生活の変化のためか体力が徐々に衰え、時折軽い狭心症の発作を起こすことがあり、医者から食事の注意や外出禁止を言い渡されていた。
昭和36年4月16日に、最愛の妻ハナの急死によって、精神的に大きなショックを受け、意気阻喪して、病状やや悪化し、周りのものも心配することもあったが、元気なときには筆を執り、書の作品に打ち込んでいた。昭和37・8年には、かなり多くの条幅や額の作品を書き残している。
昭和39年4月30日、小琴先生の法事に出席するため、外出禁止を無視して、大船の次男田中栢樹宅へ出かけ、一泊して大歓迎された。
翌5月1日、故比田井小琴先生の17回忌が、鎌倉建長寺で行われたので、法事に出席して、請われて昔の思い出話を語るうち、突然狭心症の発作でその場に倒れ、まもなく息を引き取り、医者も間に合わなかった。建長寺管長様の読経をいただき、直ちに自動車で自宅へ帰り、喪を発表した。5月3日に葬儀を行い、山北町火葬場で荼毘に付し、翌日東京本郷追分の西善寺にて菩提寺住職様の読経をいただき、先祖代々の墓地に埋葬した。
親族としては突然の出先での死去で、死に目にも会えず心残りであったが、田中家ゆかりの義姉の法事の席で、多くのご参会の方々にご迷惑をおかけして申し訳ない事ながら、晴れの席で故比田井天来・小琴両先生のおそばへ行くことができ、本人としてはさぞかし本望であったと思われる。今も小琴先生のご先祖をお守りして西善寺に眠る。
法名 硯静院釈寛雄信士
(後記 愚息 田中浩 記す)