川谷尚亭(明治19年・1886~昭和8年・1933)は高知県安芸郡川北村横山に生まれた。本名は賢三郎、字は大道、号は尚亭。別号に白雲、横山逸民、南海道人、雲弟などがある。父は酒造業を営む川谷市太郎、母はかねを。3人兄弟の一番下に生まれた。長兄の松太郎は家業を継ぎ、次兄の廣次は号を横雲という日下部鳴鶴門下の書家。

明治25年(1892)、川北村小学校江川分校に入学し、明治33年3月には芸陽高等小学校を卒業。4月には新設された高知県立第三中学校へ入学した。現在の県立安芸高等学校である。中学時代は、スポーツ、競技を得意とし、特に柔剣道や相撲をよくしたといい、学科では漢文、習字がよく出来たという。現在安芸高校の敷地内には、尚亭を顕彰する胸像が建てられている。昭和46年(1971)の建立である。明治39年3月、県立第三中学校を卒業した尚亭は、一時家業の酒造業を手伝ったこともあったが、間もなく川北役場に勤めた。

同年8月、意を決し、中国上海の東亜文学院に留学した。しかし残念乍ら10月には退学を余儀なくされている。帰国の時期もはっきりしていないようで、悪疫に対する極度の恐怖による精神状態であったという。(病名マラリアという従来の説を、尚亭研究家の寺尾子來氏が訂正)

明治42年4月、川北村小学校の教員となり、書に志し、新聞広告から選んで小野鵞堂の主宰する斯華會(このはなかい)に入会し、鵞堂流を習い始めた。通信によって添削を受けたりしていたようである。この頃の作品が最近発見されているので、次々号には紹介できるかと思っている。

明治43年7月、兄横雲の勧めにより、近藤雪竹に入門。また書道奨励協会の雑誌『筆之友』(高畑翠石主幹による)に競書を出品し始めている。この頃の尚亭は、一日5合の墨を使うほどの猛練習をしたと伝えられている。

左・川谷尚亭臨「張玄墓誌銘」 中央・川谷尚亭書「瀟灑風流」 右・川谷尚亭照影

尚亭に明治43年11月1日、長女寿子(としこ)が誕生した。川谷寿子(1910~1969)は後に女流書家としても活躍した。また、尚亭の遺作、遺品をよく管理、活用し、斯道の発展に尽力された。そしてその遺志は、川谷秀雄氏、川谷康氏へと受け継がれ、現在に至っている。

大正3年(1914)、尚亭は雑誌『筆之友』の特待生となっている。競書に提出してくる作品を見ても、他を圧している。

この年、高知に比田井天来、丹羽海鶴が前後して来遊した。尚亭は、兄横雲の紹介で2人に会っている。そして尚亭はこの2人から、大いに才能を認められたのであった。

大正4年、次に尚亭は『筆之友』の協賛員に推薦された。この会員からの推薦というのは初めてのことで、異例中の異例であった。このこともあって、当時、日下部鳴鶴から、雪竹門の麒麟児と賞されたという。

大正4年12月14日付けの尚亭より天来に宛てた書簡があるのでご覧いただきたい。

川谷尚亭書簡(比田井天来宛)
鎌倉に住んでいた比田井天来に宛てた、古碑帖の臨書作品に対する御礼状。当時の尚亭と天来の関係がよく解る好資料。

書簡の読みを示してみた。

 拝啓 先生愈 御淸祥奉大

 賀候。陳ハ 過日は甚た 失禮之

 御願致置候處 態々數多

 の御筆跡 珠ニ古來名品之

 御臨書 御惠贈被下 何トモ

 御禮之申様も無之候。毎日拜

 勸。一吟之仙風ニ浴し居候。不日

 淸書して 又々 御高敎 御願

 致度候。右御禮のみ申上候。

   十二月十四日 川谷賢三郎

  比田井天來先生

       侍曹

大正5年(1916)2月、川谷尚亭に長男泰一が生まれた。この年の10月、文部省習字科教員検定試験(文検)に合格している。この文検の文部省検定員には、大正4年から比田井天来がその任に就いていて、天来の発案により、文検に新課題「古典の臨書」が加えられていた。この文検の本試験を受験する為に上京した尚亭は、日下部鳴鶴を訪ねた。そして鳴鶴から大いに激励され、種々書の話を聞き、感激して帰郷している。

大正6年4月、高知高坂高等女学校教諭となったが、12月、上京を決意して退職。大正7年1月、上京し、三菱造船株式会社に入社した。当時、会社の嘱託講師であった丹羽海鶴と、三菱の傍系会社にいた橋野素山の推薦によるものであった。そして今回新たに発見された新資料で、大正15年に書かれた「川谷尚亭先生略歴」によると、尚亭は三菱造船入社後、日下部鳴鶴に入門している。

左・『庚戍換鵞集』に綴られた川谷尚亭書「千字文」  右・佐々木翠渓記『川谷尚亭先生略歴』〈大正15年刊〉の一部

大正7年以降、尚亭は丹羽海鶴、松田南溟等の諸名家の指導を受けている。特に比田井天来には弟子という形態の若手がいなかった為か、尚亭に対しては、次世代を担う人物の1人として、期待をもって接していたようだ。またこの頃の尚亭は、同世代の鈴木翠軒(1889・明治22年~1976・昭和51年)、田代秋鶴、吉田苞竹、松本芳翠、高塚竹堂等と親交を深めている。

大正9年、33歳の尚亭は、松本芳翠、吉田苞竹、高塚竹堂、相澤竣春洋と書の研究会である蘭契会を結成している。

大正11年(1922)1月27日、午後2時20分、日下部鳴鶴が亡くなった。葬儀は1月30日に青山斎場で行われ、尚亭は5、60人の葬儀委員の中で、受付兼礼状発送係を担当した。この葬儀の接待係、式場係、霊柩係等、各担当委員は比田井天来を中心に決められていった。担当者人選の段階での天来が書いた名簿のメモがあるので、図版で掲載してみた。日下部辨二郎、旦三、巌谷春生、冬生、辻香塢等、近しい人から始まって、鈴木翠軒、田代秋鶴、川谷、川谷と続く。横雲、尚亭兄弟である。大正12年8月、長男泰一が水泳中、不慮の死にあう。7歳であった。郷里に帰っていた時の事で、現在の安芸市書道美術館の裏の川である。9月1日、関東大震災。そして12月には東京を離れることを決意し、三菱本社を辞し、一時帰郷している。

大正13年1月、大阪に移った。4月、山下是臣の紹介で、大阪私立扇町商業高校の教諭となった。この年の6月に「甲子書道会」を創立し、月刊雑誌『書之研究』と発行している。

日下部鳴鶴の葬儀での役割分担取り決め用、天来のメモ