川谷尚亭は大正13年、大阪に移り、6月に甲子書道会より雑誌『書之研究』を発刊した。甲子は大正13年の干支であり「甲子園」開設の年である。尚亭38歳であった。

今、私の手元には『書之研究』第一巻・第三号からしかなく、それによって今号では紹介する。

題字の「書之研究」は横書きで『書譜』の中の文字を集めて作っている。勿論、右から左へ読んでいく。図版に示したものは第五号で『潘存臨高貞碑』が表紙に掲載されている。

『書之研究』第1巻・第5号の表紙

この頃の尚亭の感覚としては、碑碣(ひけつ)の拓本であれ、尺牘の拓本であれ、良本を掲載しようとするため、剪装(せんそう)本になっていない場合は、製本の一部分をカットして図版とした。そのため、各行の一部づつの並びとなってしまうため、図版部分だけでは文章は繋がらないことになる。また、図版の両側に『潘存臨高貞碑』の短い識語(しご)がある。第三号までは巻頭部に、古碑法帖類や尚亭作品の口絵があり、続いて近藤雪竹、丹羽海鶴、尚亭の古碑帖の臨書、近衛家熙の仮名等の半紙手本が縮写され、アート紙や和紙に別刷りとなって綴じ込まれていたが、この五号では姿を消している。かなり贅沢だったことを反省してなくしたのであろう。その代り、和紙別刷りの手本は、刷りっぱなしで本冊に折って挟み込んである。呉昌碩の臨石鼓文、丹羽海鶴の臨皇甫誕碑、日下部鳴鶴の草書摩詰詩である。

競書雑誌であるので、毎月の会員提出半紙半切作品に評を付して掲載しているのは、今どきのモノと同じであるが、短歌、俳句、の投稿部門があったり、漢文講座があったりする。中でも目を引くのが、田代秋鶴や井原雲涯の随筆である。『書之研究』誌のことを引き合いに出しながら、書の核心にふれる本格的な内容なのである。この頃の井原雲涯は日下部鳴鶴亡き後の『書勢』の主幹となっているし、田代秋鶴は40代に入り、いよいよ書名が高まりつつあった時である。そして、勿論尚亭の巻頭言がいい。第一巻・第三号に「骨力を養へ」と題した文を掲載する。

蔡琰(さいえん)の云ふ。初学の際、宜しく筋骨を先にすべし。筋骨立たずんば肉何れの所にか附かん、と。蔡琰は漢の書聖蔡邕の女(むすめ)である。

唐太宗の云ふ。吾れ古人の書に臨み、殊に其の形勢を学ばず。惟だ其の骨力を求むるにあり。其の骨力を得るに及びては、形勢は自ら生ず、と。

唐の孫過庭曰く、衆妙の帰する処は、務めて骨気を存ず。骨既に存して遒順(しゅうじゅん)これに加ふ。亦た猶ほ枝幹扶疎として霜雪を凌いで、彌々勁く、花葉鮮茂して雲日と相暉くが如し、と。

古人の骨力を重んずる、此の如し。近代の書、古人に及ばざるは何の故ぞ。吾人は更に骨力の養成に努力せざるべからず。

「北海道書道大会記念写真」(大正14年『書之研究』第2巻・第7号)

大正14年(1925)7月、川谷尚亭は『和漢名品集』を刊行している。A4判程の大きさで、古典の名品を図版で掲載し、簡単な解説を加えた形式の書籍で、この年の12月までの六号で発行を終了している。

大正15年7月『書道講習録』全12巻を発行した。翌、昭和2年5月には『楷書階梯』を発行している。

『楷書階梯』より。「爨宝子碑」の部分。

尚亭は書道出版による書の普及という部分も視野に入れていたと思われ、その流れには天来が大きく影響している。また、同時期に活躍した吉田苞竹、松本芳翠、辻本史邑の存在も大きい。

昭和3年4月、尚亭は名著『書道史大観』を発行した。

この『書道史大観』の発行日に関して、家蔵の3冊を確認してみた。1冊は昭和14年12月5日、第7版発行となっている。これによると初版は昭和3年4月5日印刷、10日発行である。昭和9年3月に訂正再版発行とあり、此の前年、尚亭は亡くなっている。その後、昭和10年に第3版を発行し、毎年版を重ね、14年に第7版となった。

残り2冊は、上野書店発行の覆刻版と、書学院旧蔵本で、おそらく川谷尚亭が発行当時、比田井天来に贈呈したものであろう。

この『書道史大観』は、「書道沿革の部」、「書家伝の部」、「古碑法帖の部」の3本立ての構成で、それぞれが「支那編」「日本編」となっている。総ページが1000ページを超える大冊である。

左・『書道史大観』碑版法帖の部、支那編の1ページ 右・比田井天来書「博渉多優」(『書道史大観』封面)

川谷尚亭は『書道史大観』を刊行した昭和3年、故郷土佐桂浜の「大町桂月之碑」の碑文を書いている。実に情感のある北朝風の楷書碑である。

昭和4年、尚亭は書道講習会を大阪市立高等西華女学校で開催した。西華女学校校友会と甲子書道会の共催であった。講師は、比田井天来、丹羽海鶴、尾上紫舟の3人。しかし予定していた海鶴は欠席した。講座の代講は尚亭が務めた。助手として、補助講師ということではなく、田代秋鶴、鈴木翠軒、井上桂園の名が見える。講師、助手、共に尚亭を全面的に応援する、という意味合いの講習会で、受講者は300名という。一大事業であった。8月2日から6日までの5日間の開催。猛暑との戦いであったという。

昭和5年、川谷尚亭もその中心人物の1人となっていた、「戊辰書道会」と、豊道春海が中心であった「日本書道作辰会」が合併して、「泰東書道院」が誕生した。そして第一回泰東書道院展が開催され、尚亭は理事、審査員として参加している。

昭和6年4月は四国方面を周り、勿論、高知安芸にも寄り、5月は、小倉、福岡、熊本、大分の九州と広島を周り、6月には名古屋方面にも行っている。この旅の後、尚亭は風邪をひいてしまった。それでも休むことなく、「書之研究」「書の泉」「学書自成」など、雑誌類の原稿を書き、編集作業をし、その間での自宅稽古、通信添削などをこなしていたが、遂に高熱を出して倒れてしまったのであった。肺結核であった。

昭和7年は、雑誌の原稿類を執筆の他は主だった活動はしていない。この年は、かつての盟友であった吉田苞竹、松本芳翠、辻本史邑、高塚竹堂等が、「東方書道会」を創立した年であった。