吉田苞竹(よしだほうちく)(明治23年・1890~昭和15年・1940)は、山形県西田川郡鶴岡町(現在の鶴岡市)に吉田広治、久江の長男として生まれた。本名は茂松。晩年は懋(しげる)をよく用いていた。字は子貞、苞竹は別号。別号に清泉、無為庵主人、逍遥窟主人等がある。
中林梧竹(文政10年・1827~大正2年・1913)は、肥前国(佐賀)小城鍋島藩士・中林経緯の長男として小城新小路に生まれた。名は隆経、通称を彦四郎。勇馬・勇吉郎ともよばれた。字は子達。梧竹は号である。別号は沢山ある。
北方(きたかた)心(しん)泉(せん)(嘉永3年・1850~明治38年・1905)、名をはじめ祐必といい、後に蒙(きざし)。加賀金沢の浄土真宗・常福寺の住職の子として生まれる。