文房四宝を楽しむ

せいひぞうぬし
清秘蔵主
早川忠文

紙2 本画宣

本画宣紙の逆襲

「書の紙」が出版された一九七七年(昭和五十二年)と言えば中国では文化大革命の終結の年に当たります。そして八十年代の近代化、改革開放路線、九十年代の社会主義市場経済の時代へと向かいます。古き暖簾の復活、地方自治の拡大、さらには私企業への移行と自由経済の時代になって行きました。当然文房四宝の生産にも変化が生じない訳がありません。しかし本画宣紙のうち、紅星牌の工場だけは国営企業のまま残され現在に至っています。(他に端渓の老坑と坑仔厳。印材の寿山の田黄が国営です。)文革時三万円迄高騰した四尺棉料単宣も八十年代に徐々に値を下げ八十八年には八千円に迄低下してしまいました。九十年代に至ってはさらに安く販売されていったのです。これでは和画仙は太刀打ち出来ません。さらには紅旗牌、汪六吉、三星牌といった私企業の紙が台湾、韓国の紙を駆逐していきました。そして決定的な事は八十年代中頃から尺八屏(二×八尺)の抄紙を開始し、その後日本の公募展サイズの紙を大量に輸出するようになった事です。高嶺の花であった中国画宣紙が大衆化された日本の書道界や高等学校芸術科書道の授業の中にも確実に浸透していったのです。前項の紙譜の多くの紙がまたたく間に姿を消して行ってしまいました。

本画宣とは?

 安徽省涇県にて漉かれる紙を総称して「本画宣」と呼んでいます。これに対して日本で模造開発されたものが和画仙で、その本来の画宣紙ということから本画宣と呼ばれたと云われています。又「宣」県一帯の旧称「宣州」にちなみ画宣紙と表記します。主原料は稲藁と青檀の樹皮(檀皮)でその配合により棉料と皮とに大別されます。

本画宣 サイズ この中でもっとも需要が多いものが四尺棉料単宣で本画宣の代名詞にもなっている程です。条幅用半切としても最も親しまれています。日本では渗みの多い「棉料」が好まれますが本場中国では書表現に渗みはありません。本画宣紙と言えば「皮」です。日本の戦後書の叙情的な表現と中国の「書は書法」としてとらえる表現の違いが当然紙の選択にもつながっている訳です。

 棉料の本画宣紙について手島右卿先生が「中国画仙の薄手のものは、にじみが早く、しかも裏までよく墨が徹るので表現効果があり好んで用いる」と言えば、「普通使うのには宣紙が一番だ。肌がきれいで薄いから書いた時より表装後一層書がよく見える」「淡墨のニジミを見せるのには中国の画宣がいい」と松井如流先生も同様です。さらに金子鷗亭先生も、淡墨には棉料綿連を、濃墨には棉料単宣をとその表現に応じての中国画宣の効果を熱く語っておられます。棉料の本画宣紙がいかに大きな存在であったか、否、これなくして戦後書は語れないと言っても過言ではありません。

 尚、紅星牌の印は一九九九年に日本での販売に使用できなくなり現在は「紅星牌」の文字のみの表示となっています。

本画宣 製造

本画宣紙の産地、安徽省で、本画宣の原料の稲わらを干しているところ

DVD「筆墨硯紙のすべて」の中の「中国編」で、動画を見ることができます。(編集部)

最終更新日:2017年1月30日