誰の書を取り上げようか種々考えたが、やはり第一回目は貫名菘翁にした。

写真は、大正6年10月に創刊された、大同書会の編になる『書勢』よりの転載である。見てお解りいただけるように、紙のシワ、折り目からいて「まくり」のままである。

この作品の資料がもう一点ある。比田井天来が井原雲涯から贈られた写真1枚だ。島根県今市にある写真館の型押し印があり、裏に「呈。比田井君。雲州内村鱸香翁遺愛。菘翁絶筆五大字。井原録。」とある。亡くなられた内村鱸香という方の蔵品であったということである。この人は、日下部鳴鶴が出雲地方を遊歴した時、度々会っている人である。

内村鱸香(文政4年・1821〜明治34年・1901) 本名は篤棐、字を子輔、通称を友輔といった。鱸香は号。江戸末期から明治にかけての漢学者、教育者。出雲国松江の油屋の三男として生まれた。24歳の時、京都に出て貫名海屋の門に入り、さらに大阪では篠崎小竹に学んだ。30歳で江戸に行き、昌平黌に入り、佐藤一斎、安積艮斎などに学んだ。明治に入ってからは故郷松江に帰り、私塾「相長舎」を開いた。門人には若槻礼次郎、二葉亭四迷などがいる。

「芝以保万寿」=芝以て万寿を保つ=とある。「霊芝」の芝である。最初「芝」でたっぷりと墨を含ませ、「以」以下、徐々に気持ちが高揚し、最後の「寿」を全体に響かせて終わっている。落款は「八十六菘翁書」とある。菘翁は文久3年・癸亥(1863)5月6日、86歳で亡くなっている。明治維新の5年前である。

『書勢』に一度発表されたきりのこの作品は、写真に撮られてからその後、杳として行方がわからなくなってしまった。菘翁の絶筆といわれ、菘翁芸術としても最高傑作の一つと数えられるこの作品がである。私は『貫名菘翁名品集成・全9巻』を編集製作した時に、所在が知りたくて、島根県松江に住む書友のK氏にこの話をし、調査を依頼したことがあった。書道書籍や文房具関係の仕事をしていた彼は、八方手を尽くして調査をしてくれたのだったが、やはり行方は判らなかった。

作品の法量−寸法−はタテ29.5cm、ヨコ99.5cm位。これは『菘翁印譜』から割り出した数字である。

菘翁86歳款の作品は他にも数十点あるというが、私が知っているのは「いろは帖」「題富士升龍図並讃」「前後赤壁賦」ともう一点、上に掲載した「貫名菘翁没前三月書」という行書幅である。これも『書勢』からの転載である。日下部鳴鶴が亡くなる前年・大正10年に、作品の左下に書いた識語がある作品である。