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比田井南谷心線の芸術家・比田井南谷これが書だ 1.  第1回渡米
これが書だ 1

第1回渡米

南谷道人渡米

線芸術としての書の理解は、文字の意味性や文学的な精神性を重視する日本の書道界からは無視され敬遠された。一方で、南谷の影響で誕生した前衛書は、主我的な自己表現に傾くものと、機械的で表面的な空間装飾に固執するようなものとなってマンネリ化していった。

1959(昭和34)年、「第5回サン・パウロ・ビエンナーレ展」に出品が認められ、次いで、オーストラリアのメルボルンでの個展開催、さらに、「日本美術の伝統と革新展」(オランダ、クレラー・ミュラー国立美術館)の4人展(白隠・棟方志功・篠田桃紅・比田井南谷)に選ばれるなど、南谷の線芸術は海外にも反響を呼ぶようになった。そこで、南谷は、革新的な芸術活動の中心であったアメリカで、線芸術の普遍性を確かめようと決心した。

第二次世界大戦後のアメリカでは、いかなる具象的描写も避けて、ダイナミックな動きを感じる絵画に向かう「抽象表現主義」が勃興し、さらには内面の創造的な衝動に起因して、描く行為そのものを重視するアクション・ペインティングが注目されていた。

南谷は、新たな芸術の可能性が線の表現力にあると確信していた。アメリカでの活動に向けて40歳代半ばから英会話に熱中し習得した。東京で日本文化や美術を研究していた、ジャパン・タイムズの記者エリーゼ・グリリと知り合い、英文の「書道芸術」執筆に協力を仰いだ。誤解に満ちた東洋の書芸術の本質を正すため、書の古典の鑑賞と書道史に関する著作であった。

1959(昭和34)年11月、サンフランシスコのルドルフ・シェーファー図案学校に招聘され、初めて渡米。古法帖千冊、拓本数十点を携えて、漢字の基本と書法を教え、アトリエで個人指導も行った。(左は携行した書籍目録のごく一部。)1年半の滞在期間に、サンフランシスコで2回、ニューヨークで2回の個展を開いて話題となった。出品作はニューヨーク近代美術館に購入され、複数の著名人にも購入された。

漢字(文字)の意味が分からないアメリカ人が線芸術としての書を理解し、素直な線表現を展開することに、南谷は喜んだ。

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