LIFE  − 生涯 −

比田井南谷心線の芸術家・比田井南谷これは書か 1.  電のヴァリエーション以前
これは書か 1

電のヴァリエーション以前

参謀本部時代

1934(昭和9)年、工芸学校卒業後、南谷は、東京三宅坂の参謀本部陸地測量部(戦後は国土地理院)に就職し、陸地測量・地図作製の技術を学んだ。技師として教育部(修技部)教官を務め、後輩等に測量技術等を教えた。

1935(昭和15)年、NHKに勤務していた兄厚が死去。天来の長男として、行く行くは天来の書学院を始めとした事業を後継すると期待されていたが、その任は南谷が担うこととなった。

1939(昭和14)年、天来が死去し、天来の遺した書学院を継承し、拓本・古法帖・図書の管理・運営に携わった。機関紙『書勢』を継続発行し、古碑帖の出版を行い古典書道の普及に努めた。

その後、戦争が次第に苛烈となり、世情が重苦しい中、陸地測量部の同僚や教え子たちが相次いで戦地に赴き、戦場から検閲を経た軍事郵便なども届き始めた。やがて、ますます戦局は逼迫し、先の見えない状況に南谷は鬱屈した気持ちに陥っていた。1945(昭和20)年5月25日の空襲では、三宅坂の参謀本部と陸地測量部が炎上した。終戦直後、南谷は長野県に疎開した。疎開先の炬燵の中で、南谷は敗戦によって日本の行く末がどうなるか、そして、東洋の独自性に依存した書道が果してその意義をこれからも持ち得るのか、自らに問いかけ、答えの見いだせない情況に悶々としていた。そして、南谷の見出した答えが心線であった。

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