今日は、比田井天来が発見した俯仰法(古法)について、考えてみたいと思います。
昭和12年、主宰した雑誌『書勢』に載せた「道人の使用した用筆の変遷」という論文の中に、日下部鳴鶴との出会いについて述べた部分があります。
病気のために東京に出て、はじめは一六先生を訪問し、先生から廻腕法のお話を聞いた。自分も『述筆法』ではわからなかったが、楊守敬に聞いてはじめていまのように執筆すると話された。数カ月後に鳴鶴先生をお訪ねしたときに、長鋒を使われるところを拝見した。その当時ははなはだしく長い筆を使っておられた。
中略
鳴鶴先生は科学者に逢ったように、あちらの法帖こちらの手本と持ち出され、親切に説明をしてくださった。4、5年後に入門をさせていただいたが、先生のお話に、君は古法帖をたくさん持っているから、それによって好きな手本を学んだほうがよい。自分の弟子は吾輩の悪いところばかり学んで困るなどとお話があって、道人にははじめから古法帖だけで学ぶことを教えてくださったので、道人はたいへん幸いをした。当時の筆は先生の用筆以外は使わなかった。
日下部鳴鶴は羊毛筆長鋒による廻腕法です。筆を紙に対して垂直に立て、この角度を保ちつつ書き進みます。天来も20年、この法で執筆しました。
しかし、だんだんに疑問を持つようになります。この執筆法で書くと、唐時代の楷書の健やかな強さを表現できないと感じたのです。
筆法の研究が始まりました。共同研究者は松田南溟。
松田君に、遊びながら鎌倉へときどき出てこられるように相談し、その研究が月に1、2回ぐらいあてに2、3年も続いたろう。昼夜兼行で古法帖と首引きをし、これでもないあれでもないと、しばしば議論になってくる。温厚の松田君が、家では出したことのない高声を出されることもあり、いまから考えてみると書を研究している間、あの時ほど愉快のことはなかった。けんかのようだなどというて小琴が茶を入れてくることもあり、しごくのんきな別世界で、ついに道人も剛い筆を用うることになったが、当時剛い筆を用うる者は下町の寺子屋ぐらいで、邪道扱いされていたから、剛毛を用いる者は友人間で二人だけであった。当時二人ともほかの専門家とあまり交渉がなかった。
まさに書道三昧。楽しそうですね。
では剛毛を使うと、どのように違うのでしょう。
右は日下部鳴鶴の皇甫誕碑の臨書で、左が天来の雁塔聖教序の臨書です。。
◯で囲んだ部分にご注目ください。ずいぶん形が違いますね。廻腕法で起筆と収筆の三角形を作るためには、筆を回さなくてはならないのですが、俯仰法ではそれが自然にできるのです。
天来にしぼってみましょう。
鳴鶴が使ったのは穂先の長い羊毛筆。天来は穂先が短めの剛毛筆です。鳴鶴は紙に対して筆をまっすぐにたて、天来は幾分寝かせています。
剛毛筆を少し傾けると、「三」の起筆と収筆の三角形は自然にできます。でも、「製」のはねの高さはどうしたことでしょう。
実は、縦画の最下部では、筆を手前に倒しているので、こんなふうになるのです。
上の連続写真は『墨』に乗った比田井南谷の実演です。最初は筆が立っていますが、最後は手前に倒れていますね。こんなふうに書くので、はねの高さが長くなるのです。
発見したこの筆法こそ、古典で用いられた筆法だ。そう信じた天来は、これによって篆隷楷行草を書けることを証明すべく、古典の全臨集『学書筌蹄』の刊行を開始します。上はその中の「雁塔聖教序」。お手本にしたのは愛蔵する拓本で、金色の点は筆法研究のときのもの。松田南溟手装の袖珍本です。
張猛龍碑の臨書は、きりっとした強さが再現されています。
温泉銘ののびやかさを感じる臨書です。
鄭羲下碑のうねるような線。それぞれの古典の特徴がよく発揮されています。
で、これを見た鳴鶴はなんと言ったのでしょう。学書筌蹄を贈呈されたときのお礼状がありますので、現代語訳してみます。
紙の上の字は豪快で、作意のあとが見えません。従来の作品と比べると、自然に近いところが絶妙で、私にできることではありません。年長者としてさらに申し上げるならば、技巧を弄せず、奇抜すぎることを恐れず、つまらないことを吹き飛ばすという点において、天下無敵となるに違いありません。
自らとは異なった筆法を選んだ弟子に対して、この暖かいことば! 芸術とは一つの型ではなく、多様性にあるのだということを、二人ともよく知っていたのです。
天来が剛毛筆を使ったのはほぼ20年で、その後は羊毛筆を使うようになり、また異なった筆法をあみだしました。これについてはまた今度。