2009年12月12日
ひと粒のレーズン その2
前回はいきなりレーズンの話をした。書いたことは、私の発明ではない。ずいぶん前に読んだ本のアレンジだが、書名を記憶していない。お医者さんの書いた本で、さまざまの「瞑想法」についてであった。痛みを訴える患者も、何種かの瞑想の効果で痛みを軽減できる、自分の症状をいかに捉えるかを変えることができる、というようなことだった。本を読んだ当時、レーズンの実験をさっそくやってみて、大いなる発見があった。
た またま数日前、このことを久しぶりに思い出し、ふたりの子どもと一緒に、もう一度やってみた。今度はインストラクターである。これをやってみると、またす ごいインパクトがあった。とくに閉じた目で指先のとらえるレーズンの大きさが増したように感じられるのには今回初めて気がつき、驚いた。子どもたちも同じ ように感じたという。
この実験は、ちっぽけなレーズンの一粒でも、心を一点に集中すると、そこからいかに豊かな体験を引き出すことができるか、ということを示している。きつい 甘さや、脂肪、香料などによって媚びるように作られた菓子をむさぼり食うことによっては決して得ることのできない豊かさがここにはある。世界が開けると か、目から鱗が落ちるとか言う体験も、案外このような形でやってくるのかもしれない。
私 は音楽を仕事にしている。レーズンの実験をしているときの心の状態は、音楽と向き合うさいの、まさしく理想の状態なのではないかと思う。ひとつの音、ひと つの音符といえども、そこに実にさまざまな運動感、質感を出し、エネルギーの変化を籠めることができる。そういえば「ひとつの音に世界を聴く」という題名 の本もあった。さらに旋律となれば表現は無限となる。耳を開き、心を開くということが肝要だが、そのためにはこの実験のような瞑想的集中が必須である。
このブログの広場には書の世界の住人が集まっていらっしゃるが、その方々に向かって、「ひとつの線」のもつ豊かさを指摘するのは釈迦に説法だろう。線に籠められたもの、それを一粒のレーズンのように味わいつくして、はじめて醍醐味に達すると想像する。
説 教をしているのでないのでいい加減に止めるが、芸術を離れて日常の場面でもこのような豊かさを味わえたらと思う。自らを振り返るに、「目に入っても見てい ない」、「耳に入っても聴いていない」、「口に入れても味わっていない」ということが多すぎる。そうやって人生が与えてくれる豊かさを見逃しているならい かにも惜しいことである。
同じカテゴリの記事一覧
- 炒めるか、揚げるか - 玉ねぎの悩み 2010/05/12
- 雪のカーニバル 2010/02/15
- 夕映えのなかで 2010/01/12
- レーズン番外編 2009/12/25
- 美しい煙 2009/12/22
- 「現代書道の父、比田井天来」によせて 2009/12/16
- ひと粒のレーズン その2 2009/12/12
- ひと粒のレーズン その1 2009/12/10