象さんの耳打ち
天来書院
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【書水会の現場から】水墨画を味わう

書水会ロゴ

書道、水墨画に関わる出版社が集まり、

1992年に「書道・水墨画図書出版会(書水会)」が結成されました。

以来、筆墨芸術市場の活性化に貢献すべく活動を続けています。

会員社(現在6社):芸術新聞社、書藝文化新社、天来書院、二玄社、日貿出版社、日本習字普及協会

 


 

今回は書水会の企画で、「全日本水墨画会」主催の展覧会を拝見し、書道と隣接領域である水墨画について学ばせて頂きました。

「全日本水墨画会」は1978年より続く大規模な会で、コロナ禍下を除き毎年展覧会を開き、スケッチ旅行にヨーロッパへでかけるなど活発な活動をなさっていらっしゃいます。

 

会場風景

第45回 全日本水墨画記念展
2023/2/20〜2/27 於:東京都美術館
主催:全日本水墨画会
後援:文化庁、東京都、日貿出版社、全日本水墨画連、朝日カルチャーセンター

 

水墨画と聞いて、山水画や禅画をすぐに思い浮かべる方は多いかもしれません。

しかしちょっと待って!

いまの水墨画はとても自由で、現代の芸術としてこの時代に息づいています。

会場に入った瞬間、風景画あり、植物画あり、動きの瞬間を捉えたダイナミックな絵あり。全体が屈託のない「描く喜び」に満ちています。

 

今回お話を伺ったのは、会長の塩澤玉聖(しおざわ ぎょくせい)先生です。

 

塩澤玉聖先生

 

今回の出品作のひとつ「残雪」。

圧巻の作品の前に立ってさらによく眺めると、水彩や油絵では到底表現できないであろう穏やかで奥深い陰影に幻惑されるような気がします。

これは新潟の八海山のふもとまでスケッチにでかけ、それをもとに描いているのだそうです。

山水画のような心に浮かぶ理想郷を描くのではなく、現実をモチーフにしています。

写実的ではありますが、墨色のグラデーションのためにとても幻想的に感じられます。

 

——-濃淡について

 

画面手前から奥に向かって順々に、暗く硬質な凍った雪の大地、針葉樹の林、家並み、立ちこめる霧、そして冠雪の八海山へと連なります。

これらがすべて墨の濃淡によってのみ表されているというのがとても信じられません。

陰影の濃い部分は近く感じられ、淡ければ遠く感じられます。

これが遠近感をもたらし、メリハリのある印象的な画面を作り出しています。

この絵では輪郭線を用いず、水と墨のせめぎあいのみによって物の形を表していて、それが奥行きをさらに深いものにしています。

 

——-白と黒について

 

先生によれば、色の究極は「白」と「黒」。

黒は「玄」、つまりすべての根源であり、またすべての色が混じり合いたどり着く色。

また白は、すべての色の光が混じり合うと生まれる色。

この2つだからこそ、あらゆる色、形、時には香りすらも表現することができます。

 

水墨画の白は、描かないことにより露出する紙面、つまり「余白」によって表されます。

余白の効用について、ここでは「呼吸」という言葉で教えて下さいました。

描かれている部分(黒)は感覚的に「緊張」をもたらし、余白は緊張をほどく「リラックス」の部分となります。

これは息を吸い込むときの「緊張」と、吐き出すときの「緩和」に対応していて、そのどちらも大切にしない絵は余裕がなく、見ていて疲れてしまうとのこと。

また余白は「想像の余地」でもあり、山並みを隠す白い霧の奥がどうなっているのか想像を促すことも大切なのだそうです。

 

これは余韻とも呼べるでしょうか。

書道でも余白は「空間」として、線との響きを重視しますが、

水墨画も余白を非常に大切になさっているようです。

描かない部分に意味を持たせる表現は、筆墨芸術に共通した持ち味ですね。

 

——-視線について

 

観る者の想像力は白い部分にだけでなく、画面の外にまで及びます。

例えば植物の茎を描くにしても、根本まで描かれずに画面端にあたって途中で切れているのは、単に構図の都合というのではなく、意識的に行っていることなのだそうです。

視線をその先へ向かわせ、想像をうながすことができるとのこと。

書でも文字をはみ出させることで拡がりを感じさせる表現はありますが、作意を感じさせずにこれを行えるのは、自然を描く絵画ならではのことです。

 

視線をあやつる技法は、植物のツルを描く場合も活かされることがあるそうです。

ツルの先が上を向いていれば自然と観る者の視線がそれを追うこととなり、それをまた別のツルの先が受けて…というように、画面内で視線を循環させる方法があるそうです。

書道でも実画と実画の間を虚画がつなぐことで、気脈の通った作品となりますが、それと似ているように思います。

筆順に従って文字を追う視線とは異なり、自然を眺める視線はとりとめなく流れていってしまうものですが、こうやって画面内に視線をとどめる工夫をすることで印象がより充実し鮮明になるように感じます。

先述の、画面の外に世界を拡大させる方法、そしてこの画面の中に視線を凝縮させる方法、両極端の工夫がどちらも矛盾なく行われているのが興味深く思われます。

 

——-神聖さについて

 

先生のお話を伺っていて特に印象的だったのは、

「紙面を神聖な場所ととらえ、大きな作品を描く際にもその上に決して足で乗ることなく、板を渡してその上で描く」ということを徹底していることです。

会派ごとに考え方はさまざまだそうですが、先生は創作そのものを特別なものと考えていらっしゃるように感じられました。

ところで、前掲の画像でご紹介している作品は紙に書かれたものではなく、絹を使っていらっしゃるのだそうです。

絹に作品を描かれる水墨画作家は他になかなかいらっしゃらず、大変稀有な方です。

通常よりもずっと薄い絹地を西陣織の工房に特注し、その絵絹が、80号という大きなサイズの板を包んでいます。

近づいてよく見ると絹目が見え、作品にさらに枯淡な味わいを添えているようです。

この特別誂えの絹に、後戻りのできない一筆一筆を加えていくわけです。 

水墨画は、いわゆる「塗る」感覚とはだいぶ異なる描き方のようです。一筆のうちに変化していく墨量が、微妙な濃淡を醸し出し、これを計算に入れ、くるりと丸く一筆走らせることで、木の実や葉の繊細な陰影を生み出します。

筆のタッチがそのまま絵となってしまうため、「塗り直す」ということはできないのです。

非常に強い集中力と、高度な精神力が求められるというのが素人考えにもわかります。

なお、制作期間はスケッチや下絵を含めて1〜2ヶ月程だとか。並で務まるものではありません。

 


 

水墨画と書とでは、
やり直しの利かない一回性の芸術であること、
墨色によって無限の色彩を感じさせることなど、
根本の部分が同じ筆墨芸術として宿命的に共通していて惹きつけられます。

作品を前にして、ぐっと近づいて筆意を探り、思わず香りをかぎたくなるようなあの感じ。

この楽しみが水墨画にもあることがわかりました。

今後とも、他の絵画の分野も含め学んでいきたいと思います。


今回、塩澤玉聖先生には、会期中でお忙しいにも関わらず、素人の私に丁寧に長時間レクチャーをして下さいました。気さくで朗らかな方で、楽しい時間を過ごさせて頂きました。多大なる謝意を表します。