立春のご挨拶〈春は名のみの十日 その5〉

2019年2月4日

 

 

 一月は「往ぬ(いぬ)」

 二月は「逃ぐ」

 三月は「去る」

 いつからの いわれでしょうか、年が明けてからの時の速さをいうものです。

 そういう感覚を持つ人は昔から随分いたということですね。

  

 

 たしかに、あっという間に1月は行ってしまいました。

 ひと頃より 日が長くなってきたことを感じます。 

 晴れた日の日射しには 暖かな色が添うようになってきました。

 そして2月も瞬く間に4日。

 今日は立春、暦の春になりました。

 

 

 長らくご無沙汰をしておりました。

 新年のご挨拶まで間に合わなくなってしまいましたが、 

 我が家は、お蔭さまで、みやもひたちも変わりなく年を越し、

 みな ともかく元気に毎日を過ごしております。

 本年も どうぞよろしくお願いいたします。

 

“ ライム  ッテ  ナニ? サワッテミタイ ”

テーブル 上がるの ダメだからね

 

今年もムダには起きていない ひたち

 

 変わりがあったのは私の相棒のパソコンです。

 旧年最後の外の仕事がクリスマス・イブの日でした。 

 23日夜にそのための原稿を作り、24日夜に、その仕事の後始末の文書を作り終えた途端、

 画面が暗転。

 写真のネガフィルムのようになってしまいました。

 

 

 思えば長い付き合いです。

 寿命と言われれば仕方のない年数を一緒に仕事してきました。

 必要なもののバックアップはとってあるので大丈夫、と思っていたのですが、

 さしあたりの仕事の環境を作るのに結構手間取りました。

 

 保存してあったファイルでも、新しい環境で開くことができなくなったものもあり、

 それらの手当などで年末とお正月のお休みを使い果たしました。

 

 それにしても、年内最後の仕事にキッチリ付き合い  終えてダウンする。

 相棒の仕事ぶりの何と健気なことだったでしょう。

 改めて感謝しました。

 

 

 慌ただしく世俗の用に追われている間にも  時はめぐり

 

 “ ヘヘ ”

 

“ ン? ”

 

“ … ”

 

 まず咲く花は

 

梅の花

 

 梅の季節になっていました。

 

 

   君ならで 誰にか見せむ 梅の花 色をも香をも 知る人ぞ知る  紀友則

         『古今和歌集』春上 38

 

  この歌の中には花の色を決める要素はありません。『古今和歌集』の詞書(ことばがき)も、ただ「むめの花ををりて人におくりける」とあるだけです。しかし、藤原公任の『和漢朗詠集』がこの歌を「紅梅」の部立(ぶだて)に配しているのには理由があったことと思われます。

 

 

  渡来植物である梅ははじめ白梅が伝わりました。奈良時代の文人貴族にもてはやされ、『万葉集』には天平二年(730年)正月に大伴旅人の催した梅花の宴のものをはじめとして120首に迫る大量の歌が見えます。同じ『万葉集』に桜の歌が43首であることを見ても、当時の梅の人気が並々ならなかったことが分かります。それらの歌、またその後、平安時代の早い頃、『古今和歌集』に入る頃までの和歌は、白い花として月光や雪の白さと度々詠み合わされました。

 

 

  紅梅が渡来するのは白梅よりかなり遅れ、平安時代になってからのことといわれます。十世紀中頃の村上天皇の御代(在位946〜967年)、御所の紅梅が枯れて、代わりの木を手に入れるために夏山繁樹が平安京中を探し回ったという「鶯宿梅」の逸話(『大鏡』)などは、まだこの時期になっても紅梅が多くはなかったことを窺わせます。

  言葉でも、音数が限られる和歌の場合は事情が違いますが、制限なく表現できるときは「梅」は白い花の種類をいうのが普通で、赤い花の場合は(「梅」の色違いと扱うのではなく)「紅梅」と呼び、別の種類としてはっきり分けています。

  先の『和漢朗詠集』の部立(ぶだて)も「梅  付(つけたり)紅梅」と表しています。梅と紅梅は同類ではあるものの、同じものではないとみて、二つの名前(梅・紅梅)を挙げたものと思われます。

 

 

  とすると、公任がこの友則の「梅の花」を紅梅と読んだのはどういう判断からだったのでしょうか。

  謎解きは回を改めて。

  梅の花盛りにお会いしましょう。

 

 

 

 

カテゴリー :
春は名のみの十日