生涯  - 光に満ちた線の書家・比田井小葩 -

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1948-1969

比田井南谷との結婚

1. 結婚

結婚

横浜元町の谷戸橋にて

1948(昭和23)年、小琴の勧めで、康子は比田井南谷と結婚する。南谷は1945 年に書道史上最初の文字を書かない書、「心線作品第1 電のヴァリエーション」を書き、翌年、美術展に発表し、大きな反響を巻き起こした。そして、自分の信じる書の道を開拓しようと決意し、実験を試みていた。初め、新居は葉山に置いたが、南谷は書に没頭しようと地理調査所(現在の国土地理院)を退職した。そして、天来の教えに即して「書とは別に生計をたてる」ため、印刷・製版の技術を生かした「精版研究所」設立に便利な、横浜の山枡家に移った。

2. 南谷を支える

南谷を支える

座談会会場 左から石橋犀水、天野翠琴、小葩、南谷、桑原翠邦、手島右卿

山枡家は敬虔なクリスチャンの家庭で、母まり子を中心として営まれており、来客や集会等で活気にあふれていた。もともと南谷は人づきあいが苦手で一人で仕事をするタイプであったが、小葩はその南谷の性格を理解して、思うまま仕事ができるように気遣った。

また、南谷も1956(昭和31)年の最初の個展(東京・養清堂画廊)に比田井小葩の作品も同時に展示したり、南谷と他の書家との座談会等にも小葩を参加させるなどして、共に書の道を歩み続けた。

南谷は天来の息子として、また、前衛書の旗手として、書壇で注目を浴び、はなばなしい活動を続けた。「比田井天来記念前衛書展」(1956 年)の企画開催、「日本前衛書展」(1958 年)、「前衛書代表作家展」(1958 年)等々。小葩はそうした南谷を支え、書道界との交流や事業の補佐、生活の安定に力を注いだ。母まり子が代用脱脂綿を発明したとき、母を助け普及事業化につくすなど、行動力に長けていた。小葩の行動力とそのおおらかな性格は、南谷にとって大きな安心の拠り所であった。

3. 南谷の渡米

南谷を支える

1959年12月24日に届いた小葩から南谷にあてたエアメール。左端の切手は現天皇陛下ご成婚記念。
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1959(昭和34)年11 月、南谷はサンフランシスコの「ルドルフ・シェーファー図案学校」に招聘されて、初めて渡米する。海外旅行の自由化(1964 年)の前で、旅行目的も持ち出せるドルも制限され、ビザの発行も厳格であった。申請書も煩雑で銀行の残高証明書も必要であった。手荷物も制限される中で、ようやく羽田からハワイ経由の飛行機で長時間の空の旅に出発した。この最初の渡米でのアメリカ滞在は1 年半(1961 年4 月まで)に及んだ。サンフランシスコでの「ルドルフ・シェーファー図案学校」での講演とワークショップ、個展の開催、そしてニューヨークでの様々な交流と個展の開催。

南谷は初めて、日本国内を離れて、形式や肩書には関係なく、一人の人間、一人の芸術家として、率直に正直に自分を表現することができた。この最初の渡米の最大の収穫は、「書の本質は、筆による鍛錬された線の表現であり、この線表現に書き手の人間性が顕現する(あらわれる)」という南谷の信念が確証されたことである。書芸術の本質は、文字の意味や文学的内容に依存するのではなく、それだけで独立した線の表現性に存在する。サンフランシスコでのワークショップで、漢字の読めないアメリカ人たちが率直で豊かな線表現を生み出すのに出会って、南谷はその意を強くした。

1 年半の渡米中に小葩と南谷が交わしたエアメールは百通に及ぶ。二人の手紙は散逸することなく、保存されている。南谷は、慣れない地で、病気になった報告や、個展やワークショップに必要なものを書き送り、小葩は、薬の処方や健康の心配、南谷がパーティをする際の料理のレシピを書き送ったり、子どもの成長や友人・知人の様子を知らせたりするなど、二人の時間を共有しようとした。小葩はほぼ毎日、日によっては2 通、3 通、エアメールを出している。小葩のたびたびの懇願で、ようやく南谷は帰国する。

4. 小葩の活躍

南谷を支える

日本女流代表書展(1967 年) 前から2列目中央、男性にはさまれているのは熊谷恒子、左の男性の上が小葩

南谷が渡米する1959 年、小葩は「毎日書道展」の審査会員となった。また、1961(昭和36)年、「天来偉業展」の開催を書学院同人に提案し、企画運営に力を尽くした(翌年、高島屋で開催)。1963(昭和38)年、第2回目の渡米の前に、南谷が日本の書の現在とその歴史の正しい理解をアメリカ人に教えるため、上田桑鳩・手島右卿・桑原翠邦・西川寧・松井如流・熊谷恒子らの書を書く様子を8ミリフィルムで撮影した。その上映会や、1964年湯島聖堂での森田子龍・岡部蒼風との大筆のパフォーマンスを撮影した場にも、小葩は世話役として参加した。

小径会

小径会 小葩の上が寺下小甫、その上が及川小汀

また、南谷が渡米中、小葩は「天来記念前衛書展」を続けて書学院同人の協力で企画・開催・出品をしている。さらに、1964(昭和39)年、小葩は自分の書芸術の探求と作品発表の場として「小径会」を設立した。メンバーは及川小汀(初恵)、中島郁子・水島朗琴・松原琴和などであった。また、小葩は創立された「かな書道作家協会」の理事に推薦された。1965(昭和40)年に金子鴎亭によって「近代詩文書(漢字かな交じり書)」を探求する「創玄書道会」が結成され、小葩はその理事・審査員となり、毎年「創玄展」に作品を発表した。1967(昭和42)年、「毎日女流展」の運営委員となり、第1回展に出品するなど、日本の女流書家の代表として目覚ましい活躍をみせている。

1969(昭和44)年、書学院出版部が再開され、小葩は、久しく待望されていた天来の著書や日中書道史上の稀覯名品などの編集発行に情熱を傾ける南谷を支え、協力して運営に当たった。

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