生涯  - 光に満ちた線の書家・比田井小葩 -

比田井小葩 › 生涯 › 小葩の死
1970-1972

小葩の死

1. 南谷と小葩

南谷と小葩

上列左から上田桑鳩、小葩、松尾謙三(晩翠軒)。前列左から堀桂琴、天野翠琴、南谷。

南谷と小葩は共に書家として活動し、書展などに作品を発表する際、書き上げた互いの作品を前にしてそれぞれ批評を交わした。小葩の作品には南谷からの影響が数多く見て取れる。1960 年代前半の作品には、南谷の「不思議な墨」を用いて重厚な筆の跡を紙に定着させている。当然のことながら、南谷の作品にも小葩の影響が反映されている。

南谷は、天来から受け継いだ古代中国の書3500 年の伝統を踏まえて、書の真髄が鍛錬された線の表現にあると確信し、線表現を探求し続けた。南谷の作品は、全体の空間と書かれた線や点との配置の揺るぎなさを表しており、そして観る人は追体験する線の動きに圧倒的な表現性を味わう。小葩は、小琴から受け継いだ日本の最盛期の平安かな書の可能性を追求し、詩文の配置と、その詩文の喚起力をあらわす線の佇まいを表現する。小葩の作品は、全体の空間が無上の光に満ちていて、言葉は、ある時は微かに愛おし気に「いのち」のきらめきを呈示し、また、ある時は力強く雄弁に「いのち」の存在を表現する。その線は、何気なく書かれたように見えるが、文字のもつ力を遺憾なく発揮する光に満ちた線であり、観る人の心に輝きを与える。

南谷と小葩は、中国と日本の豊かな書の伝統の中から、現代の、そして本質的な書表現を探求した。南谷の到達した書の世界は、ワシントン・ポスト紙の記事にあるように、「これが比田井だ」と言うべきものである。同じように、小葩の作品も、小葩の、信仰心に基づく深い精神性を表しており、「これが小葩だ」としか、言いようのない独自な世界を築き上げている。

2. 「生誕百年比田井天来展」

生誕百年比田井天来展

1970(昭和45)年、小葩は比田井天来(1872 年生)の生誕100 年を記念して「天来展」を開催することを南谷に提案した。書学院同人と企画・計画を練って、年代順の「天来の作品展」と「門流展」を併催することとした。小葩は寸暇を惜しんで、天来展開催に向けて奔走した。1972(昭和47)年、ようやく「生誕百年比田井天来展」(三越)の開催にこぎつけ、5 月23 日開会。小葩は、その開会レセプションの席上で倒れ、5 月25 日横浜市立大学病院で永眠、享年58 歳。

皇太子妃殿下美智子さまより生花

皇太子妃殿下美智子さま(現、皇后陛下)が展覧会ご鑑賞の際に、南谷の不在の理由をお訊ねになり、小葩の死をお知りになった。翌5月26日、小葩の枕頭に皇太子妃殿下美智子さまより生花を賜った。
比田井小葩の告別式は、6 月8 日今井館聖書講堂で執り行われた。

小葩の作品

1997(平成9)年4 月に、ロンドンのオークションハウス、クリスティーズ(Christie's)に、作者不明の作品がオークションに出された。その時のオークションでは、横山大観「神州正気」や森田子龍の作品も出品されている。作者不明の作品は無款で、二曲一隻の大作であり、右側に「小さな碧い蝶が・・・」左側に「地面に近く・・・」で始まる詩文が、墨の心地よい濃淡のリズムで表されている。「小径会」に出品された小葩の作品である。この作品が、落札されたのか、誰が落札したのか、不明である。

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