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1914-1933

小葩(康子)の誕生・家族

誕生

1914(大正3)年、康子は父、山枡儀市、母、まり子の長女として横浜に生まれた。
写真は左から山枡まり子、真中が康子、右が山枡儀市、康子に抱かれているのは、南谷と康子の娘、和子である。

1. 父、山枡儀市(儀一)

聖書之研究 主幹・内村鑑三

聖書之研究 主幹・内村鑑三

父、儀市(1882-1959〔明治15-昭和34〕年)は、鳥取県久米郡倉吉町(現、倉吉市)出身。1900(明治33)年に官立の東京商船学校(東京商船大学の前身、現在は東京水産大学と統合し東京海洋大学)に入学した(東京、越中島)。

その年、刊行された内村鑑三の日本初の聖書雑誌『聖書之研究』を読んで感激し、内村鑑三に師事して、熱心なクリスチャンとなった。毎日曜、越中島の学寮から新宿角筈の内村鑑三宅まで徒歩で通った。

1905(明治38)年に組織された最初の「教友会」の一員でもあった。儀市は商船学校卒業後、北米航路を中心とした東洋汽船に入り、外国航路の貨物船や客船の船長を務めた。1907(明治40)年、内村鑑三は淀橋の柏木へ移転し、今井館聖書講堂(病死した今井樟太郎にちなむ)を設立した。儀市は今井館にも足しげく通った。

1921(大正10)年 内村鑑三の日記

3月11日(金)半晴、無風の好き日であった。正午久振りにて横浜に行き、諸友人の迎ふる所となり、昼飯の馳走に与(あずか)り、山枡船長の案内にて近頃我国に引渡たされし独逸(ドイツ)汽船カップ・フイニステル号を見た、近代式の所謂「浮き御殿」である、肉体の快楽を得んが為に凡ての智識を応用して成りし者である、所謂欧州文明の好き標本である、惟(ひと)り独逸に限らない、文明国全体が其全身全力を快楽増進の為に費しつつあるを証して余りあるものである、世界戦争生起の原因茲(ここ)に在りと云ふべきである、此船を去り、山枡が船長たる東洋汽船巴洋丸に往いた、造船所を出たばかりの何の装飾(かざり)もなき新造貨物船である、同行の兄弟四人と共に船長室に祈祷会を開き、此船と其船長との上に神の祝福の裕に加はらん事を祈った、陸に帰り、野毛山の山つづきに新築されし関東学院の校舎を見た、米国バプチスト教会の経営に成る者、其規模の大にして其設備の完全なるに驚いた、其校長は文学士坂田祐君、旧き柏木連の一人である、其教頭並に二三の教師も亦我同信の友である、斯くて我が信仰の友にして汽船に長たる者あり、学校に長たる者あり、海と陸とは漸漸と我有に帰しつつあるやうに感ずる。

2. 母、まり子と山田猪三郎

山田猪三郎

飛行船の操縦桿を握る山田猪三郎

母、まり子(1891-1969〔明治24-昭和44〕年)は和歌山県和歌山市の出身で、紀州藩士の家系である。

祖父、山田猪三郎(1863-1913年)は1910(明治43)年、日本初の飛行船(山田式1号)を完成させ、国産飛行船による初飛行を成功させたことで有名である。それ以前にも、猪三郎はイギリスの貨客船ノルマントン号の遭難を目にして、ゴムの救難浮輪を製造し防波救命器の特許を得た。また、気球の研究に着手して、1900(明治33 )年、日本で初めて円筒型係留気球を発明したが、1913年50歳で亡くなった。

3. 山枡家と内村鑑三

山枡家と内村鑑三

左端が康子、その上雅信

猪三郎は1892(明治25)年に上京、1894 年に大崎で気球製造所(現、㈱気球製作所)を創設している。山枡儀市もまり子も熱心なクリスチャンとして内村鑑三のもとに通い、ふたりは結婚する。1914 年、長女が生まれた。長女を康子と命名したのは内村鑑三であった。

儀市とまり子の間には、長女康子(比田井小葩・書道)、長男雅信(関東学院大学教授・流体工学研究。2003 年没)、勝子(1919-1925、幼くして階段から転落して死亡)、恵美子(井上恵美子、フェリス女学院大学教授・心理学。2010年没)の子どもが生まれた。山枡家は熱心で敬虔なクリスチャンの家庭であった。今井館の聖書講読では、まり子が中心に世話役を務め、康子・恵美子の姉妹が菓子を給仕し、一高生であった雅信が集まった子どもたちに聖書のお話しなどをして活動した。

1930(昭和5)年、内村鑑三が死去。その最後を看取った一人にまり子がいた(5 日前)。死後、都市計画で柏木の内村宅と今井館が撤去されることになったとき、内村宅を儀市が買い取り、葉山に移築した。今井館は目黒区中根に移築され、日曜集会が続けられた。

父儀市は、東洋汽船の船長の職を定年退職後、横浜港の水先案内人(水先人・パイロット)を務め、横浜における港湾・船舶業界の重鎮として活躍した。

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