2008年3月14日

好太王碑  知られざる名品シリーズ「広開土王碑」

あれは今から35年ほど前、「書学院の広開土王碑」を見たいのですが、というお電話をいただきました。

ちょうど、李進熙さんの日本陸軍の改ざん説が出版された直後で、書学院に拓本が三種類あり、確かにそれぞれとても異なった拓だったので、父は夢中になって調べていました。ところが、この電話の前に、庭のちょっと高いところにはえていた茗荷をとっていたときに、足をすべらせて落下し、肩を骨折して入院していたのです。(肩の中に鉄の棒を入れたので、伏見先生が「鉄腕南谷」という印を彫ってくれた。)

で、私がお相手をしたのが、今回監修をお願いした武田幸男先生だったのです。

書学院.jpg

ねっ、違うでしょ? 

李進熙さんの説は、碑が発見されたあと、日本軍が石灰を塗って内容を改ざんしたというものでした。日本軍がやったかどうかは別にして、確かに右の拓本は不自然な字形です。父は、もしかして左の拓本は、石灰を塗る前のものだはないかと期待していましたが、いろいろ比較検討すると、どうも石灰を塗った後、石灰がとれてきて、その後の拓本ではないかと考えるようになりました。

武田先生もその説に賛成されたので、では、石灰を塗る前の拓本はあるですかと質問したところ、金子鴎亭先生が所蔵している拓本がそれでなないかと思うと話されました。

この金子本こそが、今回発行した『広開土王碑』、文字が見えにくいので骨書もつけました。

金子本.jpg

これこれ、これこそが広開土王碑の真の姿。見えやすいからといって、石灰本など習ってはいけません!!!

この本は、現在開催中の「創玄展」の売店にあります。ぜひとも手にとって見てください。

ちなみにこの話には続きがあります。数日前、武田先生からお電話をいただきました。「あの淡い色の拓本は、紙も墨もすばらしい名品だと思いますが、出所はどこですか?」 石灰本を南谷が購入したのは覚えていますが、そういえばあっちは天来の頃からあったと思うとお話しすると、「満州で作られたのではないかと思います」というお話。それはいつごろですか? 昭和7年から10年の間です。ちょっと思い当たらないので、調べてみます。

なんとなく気になるのです。満州ってどこだっけ? 樺太か? 天来は樺太へ行ったぞー。

そうなんです。天来が樺太へ行ったのは昭和11年。ぴったりと符合するではありませんか。一行が船から降りたとたん、すごい数のカメラのフラッシュに驚いたというから、かなりの歓迎だったのでしょう。だとすれば、貴重な拓本を手に入れることもできたはず。

天来宛の書簡を調べてみよう。満州からのもあるかも・・・。

 

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