〔特別寄稿〕

天来自然公園 15年の歩み(上)

NPO法人未来工房もちづき

1 比田井天来とふるさと

 (1)故郷を発ちて 

比田井天来は1872(明治5)年、蓼科の山ふところに抱かれた長野県北佐久郡協和村片倉(現在の佐久市協和)で生を受けました。比田井家は江戸時代、名主をつとめた家でした。 

 

写真は比田井天来生家

 

常太郎少年(後の天来)は人一倍腕白な子供でした。カジカやサソリの泳ぐ鹿曲川で遊び、学校を休んでしかられ、土蔵に閉じ込められても平気で昼寝をしたりして、親をてこずらせたそうです。栗やヤマボウシの実る現在の天来自然公園、生家の裏山も格好の遊び場でした。 

 「栴檀は双葉より芳し(せんだんはふたばよりかんばし)」 

天来は「私は小学校に入学したころから,法帖および碑板から書を習っていた」と語っています。子供の頃から先生に付くことなく、中国や日本の名品を手本に勉強したと言います。紙の両面が真っ黒になるまで練習し、畳が腐ってしまったと回想していました。 

 天来は1887(明治20)年3月、16才で協和小学校温習科を卒業したあと、野沢町で依田稼堂という漢学者が開いていた有鄰塾で漢学を学び、21才で助教になりました。佐久の名刹貞祥寺に行ったとき、住職は天来に何か書くよう促しました。天来の書いた「知足軒」の書を見て、住職は「君は書家になれる。田舎にいてはならぬ。東京で修行しなさい」と勧めました。数日後、住職は生家を訪れ、再度真剣に上京を促しました。(住職は天来の天分を即座に見抜いたのでしょうか)

 

若き天来の作品

 

天来は、1897(明治30)年、26才でふるさとを後にしました。上京してからは、小石川哲学館、二松学舎等で漢学、哲学、金石文字学,各体の字学を研究しました。そして 日本書道界の最高峰、日下部鳴鶴の門をたたき、学びました。鳴鶴は「君は古法帖をたくさん持っているから、それによって好きな手本を学んだほうがよい」と言い、自分の手本を強要しませんでした。当時の師弟関係では考えられないことでした。

天来は、色々な書体を持つ古い漢字の臨書に取り組みました。書法への研鑽が始まりました。そのなかで当時の筆法の主流「回腕法」では、古典の数多い書体には対応出来ないことがわかりました。長い研鑽の結果、1914(大正3)年,43才の頃新しい用筆法「俯仰法」を生み出すに至りました。現代書道への燭光が掲げられたのです。 

ふるさとを愛した天来と、天来を尊崇した郷里の人達との交流を綴ってみます。

 

(2)妻の実家に郷里から養子を迎える

天来が上京した折りの常宿は日本橋の小さな旅館でした。元子はその旅館の一人娘でした。天来を「お兄様」と呼んでいたそうです。事象に、学問に、真摯に取り組む天来の姿に感化された元子は、やがて天来の妻となるべく、高名な国文学者、阪正臣の内弟子となり、和歌と書道の勉強に励みました。寒い冬の夜は眠くなると、水をかぶって勉強したそうです。 明治34年、天来30才、元子17才で結婚しました。天来は、琴が好きだった元子に、母の名前が「こと」だったこともあり、「小琴」という雅号を贈りました。一人娘が嫁いでしまった田中家は跡取りに天来の故郷から「比田井雄太郎」(比田井誠さんの祖父源太郎さんの弟)を養子に迎えました。雄太郎は、天来の書生として支え続けました。

 

(3)天来の生活資金捻出に協力

天来はふるさとの天来名義の小作料収入だけでは生活もままならず、貸家業を考えました。その資金づくりの相談相手が故郷の親友「比田井利三郎」(比田井利彦氏の曾祖父)と天来の兄「半助」でした。数十通にわたる利三郎宛の手紙の多くは、金融に関係したものだったようです。利息が払えないので待ってもらいたい、と言う手紙もたくさんあります。1906(明治39)年、山林を残して耕作地を手放しますが、この時も半助と利三郎が世話をしました。

 

(4)「屏風百双会」で得た資金を寄付

1917(大正6)年2月28日、天来の母校、協和小学校が火災にあい全焼しました。さっそく再建に取りかかりましたが資金が足りません。天来は、この火災を知り、企画中の「屏風百双会」の売上金千円を母校に寄付しました。当時の信濃毎日新聞は美談としてこれを報じています。

翌1918(大正7)年1月、天来の講演を報じた信濃毎日新聞は、天来を「書聖」と讃えましたが、「この呼び方は自分にふさわしくない。(書聖とは王羲之をさすのであって)自分ごときに値する呼び方ではありません、どうぞ取り消してください」という手紙を新聞社あてに認めましたが、これは実際には投函されなかったようで、今天来記念館に展示されています。

 

 

 

(5)鎌倉書学院の建設に加わった郷里の人々

自然豊かな信州で育った天来は活躍の場を、自然に恵まれた由緒深い鎌倉に求めました。建長寺管長と非常に親しい間柄だった天来は、ながい間廃寺となっていた建長寺の塔頭(たっちゅう)華蔵院(けぞういん)を復興し、1935(昭和10)年敷地に書庫と住居を建て「書学院本部」をおきました。

工事のための資材は、郷里から運んだようです。工事の職人も郷里から招きました。大工の小林喜代志さん(小林勲さんのお父さん), 植木屋の小池信次さん(小池和男さんのお父さん)、作業員の比田井芳男さん(比田井俊永さんのお父さん)壁屋、屋根屋等々。

天来は、工事に来た職人たちとたびたび宴会を催しました。「望月小唄」をよく歌い踊ったそうです。宴会はとても盛り上がりました。酒好きの天来に宴会を止めさせる役目は、いつも田中雄太郎でした(比田井芳男さん談)。

 

2、「比田井天来先生生誕之地」碑を建立

 

 

1968(昭和43)年に生誕之地碑が建立されました。除幕式には180名余が参加し、盛大でした。

碑文の揮毫は桑原翠邦先生(碑陽は隷書・碑陰は木簡風の隷書体)。建立場所は天来生家の門長屋の跡地です。この門長屋は、比田井昭三さんが協和小学校に教員として赴任した時の下宿先でした。この下宿住まいが縁となり、比田井本家当主の道につながりました。結婚して教員を辞し、天来生家の当主として活躍されました。

佐久教育会長を務め、郷里に戻った小林多津衛先生は、1957(昭和32)年協和公民館の中に「比田井天来・小琴を顕彰する研究委員会」を立ち上げました。その後協和公民館長になり、公民館主催で桑原翠邦先生を講師に迎え講演会を開催しました。演題は「比田井天来の書法について」でした。「天来先生は古典書法を研究され、俯仰法を見出した弘法大師以来の書家である。その天来先生の頌徳碑は鎌倉の建長寺にあるだけなので、先生の生まれた望月町にも是非欲しいではありませんか」と桑原先生は最後に話されました。そのあとの慰労会の席で「生誕の地」碑建設の話が具体化しました。

碑建設の委員には、岡部国三郎望月町長を建設委員長、建設専門委員に大草英雄望月町教育長、上野定巳町議会議長、比田井準市協和財産区運営委員長、小林多津衛協和公民館館長他が選ばれました。

建立費用として、望月町、協和財産区、春日材産区、比田井一族、その他篤志家の寄付金等合わせて799,300円が集まりました。碑石と台石は合わせて23屯余あり、海抜2,300mの蓼科山麓から搬出されました。比田井昭三さんは「生誕之地碑建立は,小林多津衛先生の念願が,桑原翠邦先生によって点火され、上野定巳町議会議長と比田井準市協和財産区運営委員長の助力で実を結んだと言っても過言ではないと思います。郷土の偉大な先人天来のために、多方面の人たちの賛同をいただきました」と言っていました。小林多津衛先生は戦前の1930(昭和5)年、自分の生地天神のお宮の参道登り口に、天来が揮毫した「菅公社」の石碑を兄弟3人で建立しています。

 

3、天来記念館の建設

天来記念館を作りたいという想いは広がりましたが、町と県を合わせても予算は600万円しかありませんでした。天来門下の書家のみなさんに寄付をお願いしようということになり、大草教育長、上野町議会議長、比田井家当主比田井昭三、小林多津衛の4人で東京の書学院同人の会合へ行きました。はじめ寄付の予定は3千万円でしたが、列車のなかで目標は大きいほうがよいのではないかという話になり、上野駅で食事をとりながら、6千万円に書き換えたそうです。書学院の会合に行くと、金子、桑原両先生の意見で「造るなら立派なものを造ってほしい、私達も全面的に協力する」といわれ、目標は1億円になりました。実際は2億円に近い寄付金が集まりました。比田井一族や片倉区民、望月町や近隣のみなさんからも多額な寄付金をいただきました。

 

 

1975(昭和50)年、天来記念館は、日本初の書道博物館として立派に竣工しました。竣工式典には600名余が参列しました。

1980(昭和55)年8月21日には皇太子ご夫妻(明仁殿下、美智子妃殿下)が来館されました。

 

写真は皇太子ご夫妻に筆の説明をする比田井南谷先生

 

竣工後25年を経て記念館は新しい方向が求められていました。1999(平成11)年に就任した吉川徹町長は、2001(平成13年)4月1日付で、天来のお孫さんにあたる比田井和子さんを天来記念館長に委嘱しました。新館長のもとで、新しい企画展やイベントも開催され、展示替えも行われるようになりました。2012(平成24)年から佐久市・佐久市教育委員会主催で比田井天来・小琴顕彰「佐久全国臨書展」が開催されるようになり、記念館は臨書展の事務局としても大きな役割を果すようになりました。

 

4、天来自然公園の建設

天来書法の原点は、古代中国の石碑から採取された拓本の臨書でした。「書の里望月」に、天来・小琴とその門流の書家たちの石碑を建立し、この地に天来の足跡を残したい、その石碑を中心にした自然公園を造りたい、そんな夢のような構想がもちあがりました。天来の会の金子卓義先生、比田井和子さん、NPO法人未来工房もちづき理事長の吉川徹さん、理事の清水清さんが中心となり、NPO法人未来工房もちづきが、会としてみんなでこの事業に取り組むことになりました。

 

片倉公民館の看板を揮毫する金子卓義先生

 

・建設場所は、天来生家の裏山1900平方メートルを比田井昭三さんから借り受けました。

・建立する石碑は、比田井天来・小琴・比田井南谷・大澤雅休・金子鷗亭・桑原翠邦・上田桑鳩・手島右卿・石田栖湖の9基としました。

・石刻は手彫りでないと書家の筆意が表現出来ないという金子卓義先生、比田井和子さんの強い要望により、中国から碑刻家、王建虎さんを招聘し、信州鉄平石(株)清水清さんの作業場で書を石に刻みました。2ヶ月余の滞在で、生活面でも清水さん宅でご苦労いただきました。

 

・資金は、全国の書家のみなさまより約700万円のご寄付をいただき、長野県当局のコモンズ支援金から500万円の補助金をいただきました。

・天来自然公園の造園工事は2004(平成18)年~2005(平成19)年の2年間に及びました。

 

左はかなの筆法を学ぶ 右は完成した金子鷗亭碑と王建虎さん

 

前列中央が金子卓義先生と王建虎さん

 

■天来自然公園竣工式 2006(平成18)年6月4日、田中康夫長野県知事、全国の書家、地元の人達合わせて約150名が参列しました。知事はお祝いの挨拶で、「慣れるより習え」という天来の言葉を引用して話をされました。石碑の序幕は、 石碑の書を書かれた先生のご遺族と書道関係者が幕を引き、地元の小学生もそこに加わり、感動的 でした。9基の石碑は新緑に包まれ、燦然と輝いていました。逝去された金子卓義先生に、新緑の中に佇む石碑の姿をお見せする事が出来なかったことがとても残念でした。

 

 

竣工記念の集いは、春日温泉かすが荘で、座談会、揮毫会、交流懇親会を行いました。全国の書家の先生方と地元の人たちとの交流がこの時から始まりました。

翌日の6 月5日は、天来揮毫の石碑めぐり(慰霊之碑、筆塚、聖徳皇太子石標、大伴神社、菅公社など) をし、浅沼一道先生が中心になって解説してくださいました。天来記念館も見学しました。生誕の地片倉公民館では地元区民が所有している天来の書を展示し、それもみなさんに鑑賞していただきました。

 

■その後、天来自然公園は、NPO法人未来工房もちづきが管理運営し、「天来自然公園を支える会」のみなさまと地元片倉区の人たちのボランティアによって支えていただいております。