楊守敬との接点

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今回は、梧竹と楊守敬の接点に興味をもつ人のために、手がかりとなるデータをまとめておいた。図版は梧竹55歳、渡清1年前の書で、『余清齋帖』所収の『十七帖』につけられた郭祥正の題跋を臨書したもの、文中に「丙子歳仲冬月」とあるのは郭祥正が題跋を書いた年紀である。「辛巳重陽」とあるのが梧竹がこの小品を臨書した年紀で、明治14年9月9日のことである。

 

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よく知られるように、「十七帖」には幾種類もの伝本があり、その一つが宋の魏道輔が蔵した双鈎本から出た「欠十七行本」の系統で、来禽館帖、鬱岡齋帖、余清齋帖の中に刻入されている。

「余清齋帖」に収載された「十七帖」にはいくつも跋文がついていて、この郭祥正の題跋(図1)もその一つである。

楊守敬は「館本十七帖 全」という書冊を日本で出版している。「余清齋帖」収載の「十七帖」を白黒反転して黒字におこしたもので、この本にも郭の題跋(図2)を載せている。

梧竹の臨書は、おそらく楊守敬の「館本十七帖 全」(図2)によったのではないかと私は想定している。その理由は、以下のような状況から、長崎にいた余元眉、梧竹が、東京の楊守敬の動向に関心をはらっていたことが十分に推察されるからである。

関連事項を年表風に列記する(年号明治)。
10年末  
清国初代公使何如璋が赴任、余元眉も随員として来日
11年7月 
余元眉が初代長崎領事として赴任
13年2月 
楊守敬が何如璋の招きで来日  
(何、余、楊の3人ともに潘存門下)
15年1月~ 
潘存原輯・楊守敬編「楷法溯源」のダイゼスト版「楷書古鑑」を編録、「鄭魏下碑」を主として「鄭道昭集字」を編集
15年2月
清国2代公使黎庶昌に交替(公使館員は総員入替えとなったが余・楊2人だけ留任)
15年10月 
梧竹が一時帰国の余元眉にともなわれ北京の潘存のもとに留学

梧竹は楊守敬と直接に出会ったことがなかったのだろうか。
まずは明治13年の楊守敬来日の際、長崎領事の余元眉に報知がなかいはずがない。長崎寄港ないし領事館への立ち寄りの可能性を否定することはできない。
余元眉が用務で上京などあれば、顔合わせの機会も生まれたかもしれない。
17年に楊守敬が帰国の途次、長崎領事館に余元眉を訪ねて旧交をあためた状況は、岡鹿門の「観光紀遊」にくわしく記録されている。

楊守敬の来日、離日のいずれの時も、梧竹は長崎にいたと考えられる。いずれかの場面で梧竹も同席という想定もあながち無理ではない。 

小城市立中林梧竹記念館蔵「梧竹叢書」の中に、余元眉の紙箋「楊之学博而不精、鄧務為専精。

二君者吾同年友也。同年応科挙○○朝也」が残っている。楊守敬の来訪時に梧竹と交わした筆談かとも考えられる。書かれた時期がいつか、楊と鄧は楊守敬と鄧承脩をさすのではないか、解明に期待している。

梧竹が北京で収集将来した「梧竹堂法帖」のうち、漢「沙南侯碑」拓本に、楊守敬の「激素飛清閣蔵」収蔵印がある。梧竹に渡った経路は不明。

余談1 山本竟山が楊守敬所持の「余清齋帖」を購得し、日下部鳴鶴を経て比田井天来に渡り、書学院から覆印されている。図1はこれによった。

余談2  梧竹の臨書には、本文以外の解説文や雑文までふくんだ例が多く、これが特色の一つとなっている。今回の小品もその一例である。

 ◆今回の論考について詳しくは次の資料をご覧ください。
杉村邦彦『日本近代書法の原点としての潘存』(書学叢考所収)
杉村邦彦『楊守敬の帰国-岡千仞『観光紀游』を基にして』(書学叢考所収)
中村史朗『「大河内文書」にみる明治期の日中書法交流 』(書学書道史研究18 所収)
日野俊顕『「楷法溯源」と「楷書古鑑」』(書論35所収)                   
日野俊顕『未完成の中林梧竹「鄭道昭集字」』(書論36所収)

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