楚公鐘銘臨書――臨書にこめる精神性

臨楚公鐘銘ss.jpg
85歳の臨書『楚公鐘銘』。もっと後にUPの心積もりだったが、先週の「桜岡公園」との関連で、ブログの流れからちょっとはずれるのだが、急遽登場ということになった。





臨楚公鐘銘3.jpg楚公□みずから宝大鎛鐘を作る。孫子其れ(永く)宝とせよ。
周時代の楽器、鐘の銘、阮元の『積古齋鐘鼎彝器款識』による臨書である。

縦268㎝の巨大な双幅、書線の太さが5~6㎝もある。吹き抜け2階の壁面いっぱいほどの大きさだ。ただこの画像を眺めるのでなく、高さ3メートルほどの巨大な双幅の前に立って、いま見上げているのだという認識を、確かにイメージするのが鑑賞のポイントだ。堂々としてよく整ったこの文字たちの姿は気迫に満ちて、圧倒的な筆勢におされて身体がゆらゆらと揺らぎだす。85歳の老齢でこんなに巨大な素晴らしい文字をしっかりと書いた、梧竹の若々しい気力と体力にただただ驚嘆である。

上部を大きくした楚、木と木の間で奥の方にのぞいて見える○。小さく書いた公のとぼけた表情。ミロやクレーを先取りしたようにモダンな感覚だ。楚と孫と子の5つの○。□と2つの宝のウかんむり。公と自と鏄、それに鐘・孫・子では両手万歳の形をした逆三角形。繰返しと照応の何ともいえぬ巧みさ。一字一字が個性をもちながら、呼吸はずっとつながって一貫している。遠近感もばっちり。左右の幅のバランスもばっちり。緊密な造形性の面白さ。

1月8日のブログで解説した、書線を横断した切り口が円形となる円筆のことをこの双幅でも検証できる。立体感や、生気溢れる遠勢もよみとっておきたい。

先週「桜岡公園」のブログで「よく似た風合い」といったのは、上述のような特色が両者の間に共通して顕著に感じられるからだ。しかも両者の間には36年という時間の隔たりが存在する。それは両者が内に書きこんだ、技(かたち)と精神(こころ)の比重の差となって表れている。「公園碑」において、技:精神=7:3とすれば、「鐘銘」においては3:7と逆転する。書としての迫力の差は、そのまま私たちに迫ってくる精神性の感動衝撃波のベクトルの差となっている(ベクトルは力の大きさと方向を表す)。

この雄渾な双幅を眺めていると、文字に重なるように、筆を運ぶ梧竹の澄み切った目の色が見えてくる。『梧竹堂書話』のもっとも有名な一節、「筆意を漢魏に取り、筆法を隋唐に取り、これに晋人(王羲之)の品致を帯びさせ、さらに日本武士の気象を加える」という梧竹書法の根本則が、その目の色の奥に強靭な裏付けとして光っている。

◆梧竹が臨書に用いたテキストが粗雑であるとか、文字が正確でないなどの批判もあるが、印刷やIT技術が発達普及し、精度の高いテキストの入手が容易になった現代の感覚からの見方で、当時にあっては上等でないテキストさえもが貴重品であった。

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