第2回 火事と喧嘩は江戸の華(中)
町火消しめ組は、歌舞伎『神明恵和合取組』(め組の喧嘩)で有名だ。この、鳶と力士との大立ち回りは、文化2年(1805)に実際にあった話を本にしてい
るという。また、『盲長屋梅加賀鳶』という大名火消しを題材にした歌舞伎もある。冬から春にかけての江戸は乾燥している上、強い風にあおられ火はたちまち
燃え広がる。龍吐水や手桶では消火もままならず、江戸の火消しは、建物を引き倒して延焼を防いだと言われ、鳶が活躍するのもこのためだ。
歌舞伎といえば、忘れてならないのが『忠臣蔵』。浅野内匠頭長矩の祖父長直は、火消しに長けた人だったそうで、浅野家は、大名火消しの中でも、誉れ高
かった。忠臣蔵の四十七士のいでたちが「火事装束」であるのも、調達するのに目立たないというだけでなく、「戦闘服」として自然だったのであろう。浅野と
吉良との諍いを、喧嘩というと語弊があるが、仇討ちの意味や、意義はさておき、本題に入るために、ここでは火事と喧嘩という共通項で括っておく。
赤穂四十七義士碑
都営浅草線泉岳寺の出口から、伊皿子坂を少し登って左手に泉岳寺がある。三門を入って左に切腹した四十六義士の墓所(図1)があり、今でも線香の煙が絶えない。(義士の一人、報告役の寺坂吉右衛門は、天寿を全うして麻布の曹渓寺に葬られた)
墓地門前に、「赤穂四十七義士碑」がある。碑文は、やや縦長の結構の楷書で、亀田鵬斎が書している。独特だが衒いのない書風である。鵬斎は、書を三 井親和に学び、後年良寛の影響を受けたと言われるが、顔真卿を根底に、欧陽詢から北魏の書まで広く学んだらしい。「義烈之出於清誠 而動天地感神明者 ...」ではじまる碑文(図2)からは、「この碑は老拙一世之盛事」と言った鵬齋の気魂が伝わってくるようだ。「文政二年巳卯春三月 亀田興撰并書」 (1819)とあるが、碑陰をみると原刻碑の拓本より影写して明治四十三年(1910)に重刻再建した旨が記されている。 原碑拓本(図3)には、末尾に廣瀬羣鶴鐫と刻されているが、当然ながら再建された現在の碑にはこれがなく、碑陰に青山石勝鐫と刻されている。 立碑に鵬齋は深く関わったようで、石屋への支払いを謝する書簡が遺されている(『書えん』六巻七号増訂亀田三先生傳實私記其四)。資金集めに拓本も数百採 られたと言われ、現在もその一部が遺されている。
図2 図3
原刻碑は、渥美國泰によれば、義士碑の斜め前の碑林にある「大般若経供養塔」(図4)に改刻されたという。確かに碑の形状が似ており、碑石も現在の
ものより立派である。碑陰に「維時安政二年歳次乙卯二月穀旦 當山三十六代六十壽哲鱗建焉 鼎齋生方寛薫沐拝書 」とあった。鼎齋は巻菱湖の四天王の一人
で、安政三年(1856)正月に凶刃に倒れているので最晩年の筆跡である。
図4
泉岳寺の諸碑
供養塔の前にある「筆供養之碑」は、林龍峡の揮毫。その隣には「義商天野屋利兵衛浮圖碑」、高島易断を創始した「高島呑舟」の碑などがある。
線香の煙る義士墓地の隅には、「烈士喜剣碑」がある。碑文には江戸林長孺撰とあり、林鶴梁の撰文を昭和十五年(1940)に刻したもの。塀沿いにある隷
額の「南そう翁碑」は、嘉永元年歳次戌申四月建てられた。大橋知良書とあり整斉な楷書である。義士の墓と並んでたっている「表忠碑」は慶應戌辰孟春とある
から、明治維新の年に建てられたものだが、碑はかなり傷んでいる。
本堂前庭には、明治十八年十月(1885)に建てられた「横山君墓碣銘」(図5)がある。矢土勝之撰、日下部東作書并題額、井龜泉鐫とあり、楷書の鳴鶴
書碑である。隣の「殉難戦死之碑」は、原碑(明治十一年八月建)が倒壊したため、大正十二年三月(1923)に再建された。
泉岳寺を出て、伊皿子から高輪台方面に歩く、この辺りは旧東海道の道筋で老舗の和菓子屋なども並び風情が漂う。しばらく行くと、都営住宅の入り口に「大
正6年7月東京府 大石良雄等自刃ノ跡」(高輪1−15)という標柱がある。ここは、熊本藩細川家の下屋敷があったところで、団地の奥に十六名の切腹の跡
が保存されている。義士達は、いくつかのグループに分けられて預けられ、大石主税、堀部安兵衛など十名は、三田の松平隠岐守の屋敷で切腹した。跡地はイタ
リア大使館になっていて、切腹した十士の碑がある。昭和14年に当時の大使が建てたもので、拓本を見ると墓誌のようにラテン語を刻んだ下に徳富蘇峯の書が
刻され「伊太利亜大使アウリティ」とある。残念な事に、碑は公開されていない。
図5
仇討隠語碑
仇討ちつながりで、東急目黒線の不動前へ。目黒不動尊の参道から、かむろ坂通りを少し下ると左側に行元寺(西五反田4−9−10)(図6)がある。入り
口は住宅に入る通路のようで、うっかりすると見落としてしまう。豊道春海が眠る寺である。門前にには、碑や手水鉢、石仏や供養塔が立ち並び「仇討隠語碑」
(図7)がある。
碑は、寺の移転とともに神楽坂肴町から明治四十年(1907)に移設された。天明三年(1783)十月八日に当時の境内で仇討ちがあり、住職が願主となっ
て立てられたもの。武士の仇討ちでなかったため公儀を憚って隠語で刻されたと伝えられる。はじめは碑陽に「念彼觀音力
還著於本人」と観音経の一節が刻されただけだったが、文化十二年(1815)の三十三回忌に碑陰が追刻された。太田南畝(蜀山人)が書いた、碑陰の意味は
次のようになる。
癸卯天明陽月八 天明三年十月八日
二人不戴九人誰 天不戴仇誰
(不倶戴天の仇は誰か)
同有下田十一口 冨吉(仇討ちした男)
湛乎無水納無絲 甚内(討たれた男)
南畝子 願主 休心
図6 図7
そばに、数十体の石仏が並び、台座に文字が刻された大きな仏像がある。「大震災横死者供養塔」(図8)で、関東大震災の犠牲者を慰霊したもの。「大
正十四年五月一日 行元寺第十七世沙門豊道慶中識 井亀泉刻」(1925)とあり、春海が揮毫していている。この辺りは、目黒不動尊の「西川春洞碑」をは
じめ、春海揮毫の碑や石標が多いところだ
図8