2008年9月 1日

第19回 品川・東海寺(1)江戸

 東海道品川宿辺りには、多くの碑が今でも残る。...


(図1-1)「利休居士石浮図」 (図1-2)「王羲之書」

 東海道品川宿辺りには、多くの碑が今でも残る。高輪の大木戸(都営線泉岳寺駅真上の国道端に遺構が残る)を出ると、 山手(高輪)には大名屋敷や、寺院が連なり、海側は、弓なりの海岸線が続き茶店が軒を並べ、沖合には白い帆船が浮かぶ。 江戸時代の錦絵に描かれた高輪付近の光景である。今では、その海岸は埋め立てられ、JRの線路が出来、だいぶ沖の方まで陸地になり、 林立するビル群が海風を遮っている。


(図1-3)「趙子昂書」

 広重も、この品川周辺の光景を何枚もの浮世絵に残している。櫻の名所、紅葉の名所、そして遊興の地として、往時の品川は絵になったのである。 漁業も盛んで、今は埋め立てられた天王洲辺りは良い漁場であったらしい。寛政年間に沖合に現れた鯨捕りには多くの見物人が集まったと言われ、 後で述べる「鯨碑」もそのとき建てられている。
 三代将軍家光は、品川をよく訪れたと言われ、寛永15年に新寺造営を命じて沢庵禅師をここに向かい入れた。沢庵が住持となった東海寺は、 最盛期には17の塔頭を有し寺域が5万7千坪もあったという大寺院である。目黒川沿いに連なるそれらは、江戸の西側の防御ラインの要でも あった。明治の廃仏毀釈で、塔頭の多くが廃寺となり、現在の東海寺(北品川3-11-9)は、堀田正盛が創建した臨川院(玄性院)が 名跡を引き継いだものという。となりに続く鬱蒼とした墓地は、熊本藩細川家墓地で、廃寺となった妙解院の名残である。


(図2-1)「如風齋牛翁壽蔵碑碑陰」 (図2-2)「牛翁碑陽」


(図2-3)「碑陰記」

 寺として残った所では目黒川を挟んだ対岸に清光院(南品川4-2-35)がある。この寺には、面白い碑が残る。本堂前の庭に建つ 「利休居士石浮図銘」碑(図1-1)である。碑陽の左右に一対の龍が彫られ、明和丁亥(4年・1767)の紀年がある。銘文の末に、 「平鱗集 晋右將軍王羲之書」(図1-2)とあるが、鱗は沢田東江の名である。東江は、後年源を名乗ったが初めは平を称した。 林鳳谷について儒学(朱子学)を修め、書は高頤齋に学んだと言われる。『東江先生書話』など書に関する著述を多く残し、 高橋道齋とともに多胡碑を採拓して世に広めたことでも知られる。古法を良く研究したと言われるが、羲之の書を集めた碑が残されていることで、 そのことが事実として浮かび上がってくる。碑陰には、「江幹集 元趙子昂書」とある。趙子昂は禅僧に好まれた書家であるが、 江幹の略称は私には不明である。僧侶ではないであろうから、東江と同時代の学者や茶人を調べるほかはないのだが...。


(図3)「澤庵額」

 そばに「如風齋牛翁壽蔵碑」(図2-1)がある。碑陽に歌と絵が刻まれ下部は土中に埋まっている。碑陰には、「如風齋牛翁壽蔵碑陰記」(図2-2) と題があり、「寛政十一年 牛山箕騰世龍撰併書」とあった。牛翁、牛山ともにつまびらかではないが、前回紹介した上大崎の本願寺に、 同じ寛政11年に書丹された牛山の書碑がある。「月夕窓調和先生遺髪碑」で碑陽に和歌、碑陰に漢文の碑陰記という形式が同じである。
 寺の本堂に掲げられた扁額に、「澤庵叟」(図3)とあった。沢庵禅師ゆかりの寺である。


(図4-1・4-2)「開山澤庵和尚塔銘序」

 
 清光院から山手通りに出て左折ししばらく行くと、JRのガードに出る。ガードをくぐり線路に沿って品川駅方面に行くと東海寺大山墓地 (北品川4-11-8)がある。ここには、沢庵禅師のほか、賀茂真淵、服部南郭、渋川春海など江戸の著名人が眠っている。石段を登り広場に出ると、 亀をかたどった台座の亀趺碑がある。「開山澤庵和尚塔銘序」(図4-1・4-2)とあり四面にびっしりと文字が刻されている。 沢庵没後百八年の宝暦3年に建てられた碑である。序は南禅寺住持元良和尚、書は当時の住職閑田義門。近くにある沢庵禅師の墓は、 小堀遠州の設計と言われ、沢庵石のような丸い自然石が置かれ文字はない。入り口の左手にいくつかの墓碑があるので見てみると、 「利休居士追遠塔」(図5)があった。裏面に塔銘が刻まれ「天明三年 河保壽書 石工中開雲」とある。天明三年は、 利休の二百回忌法要が行われた年だという。河は河原保壽であろうか。服部南郭の墓の前、新幹線の線路沿いに南郭の一族の墓が二十基ほど並んで いる。南郭の墓に銘文はないが一族の墓には銘文を刻したものが多い。南郭の女婿である仲英(号、白賁。正徳6〜明和6)の墓に、 門人河保壽書(図6)とあった。利休塔と同じ書者である。


(図5)「利休居士追遠塔」



(図6)「仲英碑銘」




(図7-1)「真淵碑」




(図7-2)「真淵碑字」


 大山墓地は、東海道線(京浜東北線)と新幹線(山手線)の分岐する三角地帯にある。東海道線側にある賀茂真淵墓は、 墓域に鳥居が建ち静寂な雰囲気が漂う。鳥居を入った左に「賀茂真淵碑」(図7-1・7-2)がある。見事な行書碑で「享和元季 橘千蔭文作氏自書利」 とある。村田春海、本居宣長と並ぶ真淵の高弟、加藤千蔭(享和20〜文化5)のものである。墓前にある標石の書、「賀茂縣主大人墓」(図8) も千蔭のものと伝えられる。入り口右手の「賀茂翁墳墓改修碑」は、明治のものなので次回紹介することにしよう。



(図8)「賀茂縣主大人墓」


(周辺の訪碑記は、書21第32号に「東海道品川の宿を歩く・上」として収録されいるので参照されたい)

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