2007年1月 1日

第1回 火事と喧嘩は江戸の華(上)

  明暦3年(1657)1月18日から19日夜まで続いた火事は、江戸城をはじめ市中の6割を焼き尽くした。この「明暦の大火」(=振り袖火事)を筆頭に、 「目黒行人坂火事」(明和9年<1772年>2月29日)、「牛町火事」(文化3年<1806>3月4日)を「江戸三大火事」と言うらしい。ほかにも、天 和2年(1682)の「お七火事」など江戸の大半を焼いた火事は枚挙にいとまがない。大火は記録に残るだけでも80余にのぼるというからすごい。変な話だ が4年に一度のペースで町が生まれ変わるというのは江戸の活性化に一役買ったようだ。「宵越しの銭はもたねー」と言う「気っぷの良さも」なるほどと思えて くる。

 映画や芝居で見る火消しの「兄イー」は、勇み肌で喧嘩っぱやい。「粋でいなせ」は、江戸の男の象徴だ。それまでの「大名火消」と旗本の「定火消」に加えて、「町火消」が組織されるたのは、大岡越前守の時代である。

 目黒・行人坂にある大円寺(下目黒1-8-5)は、「明和九年の大火」の火元であった。この大火で目黒から千住まで江戸の三分の一が灰燼に帰したと 言われ、幕府は「めいわく」な年を忌み嫌い元号を「安永」に改めたほどである。境内の石仏群は、焼死者を供養するために造立された五百羅漢(写真1)。

 

写真1

 この寺はまた、「八百屋お七」が恋した駒込吉祥寺の「寺小姓吉三」が剃髪して西運と名乗り、坂下の明王院(現在は目黒雅叙園のあるところ)で弔いの 日々を送っていたことでも知られる。西運は、八百屋お七が火刑に処された後、目黒不動と浅草観音へ隔夜日参一万日の念仏行をはじめる。二十七年五ヶ月かけ て満願したと言われ、その間に集まった浄財で行人坂を石畳に替え、目黒川に石橋を懸け、明王院に念仏堂を建てた。境内右手には、大亦観風画の西運上人像と 「吉三発心 只たのむ かねの音きけよ 秋の暮」の句が刻された碑があり、西運が施主の「行人坂敷石造道供養碑」や三猿像が彫られた庚申塔がある。 供養 碑には「元禄十六年」(1703)、庚申塔には「寛文七年二月十五日」(1667)の紀年があった。阿弥陀堂の内陣には「光明遍照 十方世界」「念仏衆生  摂取不捨」と彫られ対聯の刻書があり、会津八一が書している。
「め組の喧嘩」で有名な町火消「め組」は、芝が地元である。「め組」の墓は、高輪・正覚寺にあり、歌舞伎役者の名が彫られた石柵に囲まれて建っている。目 黒からはやや不便なので、供養碑のある芝増上寺に向かう。都営三田線を芝公園で降り、増上寺「三解脱門」を入る。この門は元和九年(1623)に再建され た東京では古い建造物の一つで国の重要文化財に指定されている。右手に木更津まで響いたといわれる大梵鐘あり、その前を右に行くと「め組」の殉職者の供養 碑がある。享保元年(1716)の紀年がある纏や句を刻した石標などが林立している。文字部分に赤いペンキが入れられているが、「め組」となるとその派手 さが気にならないから不思議だ。(写真2)


写真2

 その奥に細長い自然石の碑がある。上部約2メートルほどを使って「弔魂之碑」と刻された行書の題があり、下部約3メートルに銘文を記す。西南の役で 戦死した看護卒の供養碑で、明治11年に建てられた。題額は山岡鉄太郎(鉄舟)。碑文は中村正直が撰し、成瀬温(大域)が楷書で書丹している。(写真3)
 そばに「心と創造」と書かれた真新しい筆塚があった。新しく平成16年に建てられたもので、札幌在住の書家小川東洲が揮毫している。境内にはほかにも碑があるが、佐瀬得処揮毫の碑など古いものは記録だけが残されていて今は無い。


写真3

 増上寺の西側にある東照宮の参道には、明治14年に建てられた「武田竹塘先生紀功碑」がある。碑文に「熾仁親王題額、石川良信撰、日下部東作書、 進藤鑾斉刻」とあり鳴鶴が楷書で書している。(写真4)東照宮参道の途中から左へ、芝公園に入ったところにある「銀世界」碑は、天保3年(1832)の紀 年があり、「琉球」の棟応昌が書したもので珍しい。


写真4

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