2008年4月 1日

第14回 白金の鳴鶴書碑・荘田膽齋墓(興禅寺)



(写真1)目黒川の桜

 春風に誘われて五反田から目黒川沿いを歩くと、見事な桜並木がある。川岸は桜のトンネル、桜の花びらは吹雪になって舞い川面を染める。 (写真1)
 上流まで続く桜並木と別れ、行人坂を上って目黒駅前を過ぎるとじきに白金である。上大崎の信号の左側一帯は、中世の白金長者の屋敷跡といわれ、 旧白金御料地だったところである。広大な敷地は、今は国立科学博物館付属自然教育園になり、浅香宮邸跡に庭園美術館ができている。 しばらく行くと、白金台の交差点に出る。丁字路を左に行くと、風情ある街並みに、シロガネーゼならぬ、 散策スタイルの人がちらほら歩いているのに出くわす。ここはプラチナ通り(外苑西通り)と呼ばれるところで、散策のスポットなのであろう。 ガソリンスタンドの信号を右に入り、ファミールコートの前を台地の稜線にそって右に入ると興禅寺(港区白銀6−14−6)がある。 細い昔ながらの道である。道路の左側は急傾斜地で、満開の桜の古木越しに見る眺望は素晴らしい(写真2)。

(写真2)興禅寺

 門を入って左手の墓地奥、隣家との塀際に荘田膽齋墓がある(写真3、3−2)。荘田膽齋は会津藩祐筆を努めた人で、巻菱湖に師事した。 維新後は清国に遊学した書家で明治22年に没している。山吹の花に彩られた碑文を見て驚いた。ぐるりと彫られた碑文の末尾に、 従六位南摩綱紀撰、正五位日下部東作書并墓題とあった。鳴鶴書碑として既に知られているリストには無いもので、 私にとっては新発見であった。明治の書家として、鳴鶴との親交が深かったのであろうか、いずれ資料を探してみたいと思う。 碑文によると「藩命写四書輯疏廿九冊上梓」とあるから、なかなかの人だったのであろう。

(写真3)荘田膽齋の墓



 このお寺は、会津藩ゆかりの寺のようで、会津藩士の墓が多い。墓地に入ってすぐ左には、幕末の動乱の中で切腹した「神保修理」「萱野長修」 の墓があり、墓前に「萱野国老敬仰碑」(昭和43年建立)があった。 向かい側に立つ細長い碑は、「岸先生碑」である(写真4)。 明治45年に建てられた碑で、碑文によると、会津出身で江戸に出て「門之徒前後三千人」の教育者となった人のようだ。 撰文は門弟の一人、工学博士石橋絢彦。書は、香溪山内昇とある。香溪は、明治期に活躍した書家で、 会津から江戸に出て市川米庵の高弟山内香雪の門を敲き養子となった。中林梧竹も香雪の弟子にあたり、香雪、香溪、梧竹の墓は、 ここからさほど遠くない三田の薬王寺にある。

(写真4)岸先生碑

 何気なく墓地の奥に行くと、「中興白杉政愛之墓」と記された大きな墓があった。大正11年に建てられた墓で、宇野哲人代撰とあり、 書者の名は無いが立派な書であった。
(目黒川からの散歩の道筋を紹介したが、通常は地下鉄白金台駅からプラチナ通りに出る方法と、 白金高輪駅から歩いて北里研究所の信号を左に入り、蜀江坂を聖心女学院の塀沿いを登って来る方法がある)

同じカテゴリの記事一覧