2008年5月 1日

第15回 白金高輪から三田へ



(写真1)大久保彦左衛門忠教頌徳碑

 「興禅寺」から白金高輪駅に戻る途中に、大久保彦左衛門の寺がある。赤い門の目立つ「立行寺」(港区白金2−2−6)という法華宗の寺である。 寛永7年(1630)に大久保彦左衛門によって六本木付近に創建されたと言われ、寛文8年(1668)にここに移転したという。 鞘堂に守られた彦左衛門の立派な墓が現存し、鐘突堂 のそばに「大久保彦左衛門忠教頌徳碑」(写真1)がある。昭和2年(1927)建立の大きな碑である。 「正三位男爵杉溪言長書」とあり、碑陰に碑記がある。傍らに寄り添うように建つ小さな碑には、「一心太助」とある。同時期のもので、 これも杉溪が書している。杉溪言長は堂上華族で、六橋と号した文人でもある。護国寺の「三條公神道碑」の書者として著名であり 詳しくはその項で述べた。


(写真2)碑

 立行寺を後に、桜田通りを横切り魚籃坂を上る。大丸ピーコックの手前の路地を左に入りしばらく行くと「薬王寺」(港区三田4−8−23)がある。 日蓮宗の寺で、創建時は麻布狸穴に在ったといい、寛文元年(1661)にここに移された。 門を入った左に、「香雪山内翁碑」(写真2・3)がある。 山内香雪は、市河米庵の高弟で名を晋といい、一枝堂とも号した。寛政11年(1799)に会津に生まれ、江戸に出て市河米庵(三亥・1779〜1858) に師事した。関西、長崎を遊歴して江戸帰り、書塾を興して一家を成したと言われ、安政7年2月(1860)に没している。養子に香溪、 門人に中林梧竹など明治書壇の重鎮が連なる。


(写真3)香雪山内翁碑

 碑には「間部詮勝篆額、仙台大槻清崇撰文、加賀市河三■(乳の子が米)書、廣群寉刻」とあり、万延元年(1860)に建てられている。 清崇は磐溪、三■は米庵の養子遂庵(三治・1804〜1885)の名である。遂庵は、加賀大聖寺藩侍医横井家の出身で、米庵の養子となり、 子に得庵(三鼎・1834〜1920)が居る。市河家は、天保4年(1833)に米庵の養子三千(恭齋)が亡くなり、遂庵が養子となり市河家を継いだ。 天保9年(1838)、米庵の晩年の子として生まれた三兼(万庵・1838〜1907)は、分家して江川太郎左右衛門、 高島秋帆について洋式砲術を身につけたが、維新後は大蔵省に勤務する傍ら書を教授したという。ちなみに、 戦前まで使われた五圓札の文字は万庵の書と言われる。幕末から明治にかけて碑石に、市河と刻まれた書者を系統的に覚えるのは結構大変である。


(写真4)中林梧竹墓碑正面

香雪の墓は、本堂裏手の墓地にあり、養子の香溪(〜1923)は、「山内家之墓」に合葬されている。香溪は名を昇と言い、 戊辰戦争で江戸潜伏中に捕縛され、獄舎に繋がれた時の歌を、会津飯盛山の石碑「思い出の碑」に刻んでいる。維新後は、 和歌山藩に職を得たが廃藩置県で東京に居を移し、書家として名を馳せた。


(写真5)中林梧竹墓誌銘

 向かいに、中林梧竹の墓碑(写真4・5)がある。正面は「天外一閑人」と行草書で彫られ、落款は、金栗とあり、印は「元明之印」とある。 「善通院金栗元明大居士」は、小城鍋島藩第三代藩主元武公の法名という。能筆である。右側面に 「肥前國小城 俗名中林彦四郎隆經 梧竹堂鳳栖居士 大正二年八月四日卒」とあり、左側面には草書単体で墓誌が刻まれている。 末尾に「明治三十七年甲辰四月 梧竹中林隆經題并書」とあり生前に梧竹によって建てられた逆修墓と解る。卒年は追刻されたのであろう 。 梧竹の亡くなる九年前の七十八歳の建立である。香雪の傍らに生前に自ら墓を建てたのは、先師に対する敬慕の念からだったのであろう。


(写真6)朝顔の井戸・小さな碑

 墓地の奥には、千代女の俳句で有名な「朝顔の井戸」があり、小さな碑(写真6)が建っている。また、隣の「正山寺」の(三田4−8)の庭には、 「陳元■(文武の下に貝)先生之碑」(写真7)がある。戦後建てられた新しい碑で、明朝萬暦十五年(1587)に中国浙江省杭州に生まれた人で、 元和七年(1621)に来朝し、尾張徳川家に仕えた人と碑陰にある。書は、中華民国特命全権大使 基顕光とあった。碑主の名は、愛宕山にある 「起倒流拳法碑」に、起倒流の元祖として出てくるので面白い。安永八年の碑で、沢田東江の書である。


(写真7)陳元■先生之碑

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