2007年3月 1日

第3回 火事と喧嘩は江戸の華(下)


八百屋お七墓所
 八百屋お七の墓があると聞いて、都営線白山駅そばの円乗寺を訪ねた。マンションの谷間にある寺である。ここ白山一丁目辺りは、小石川指ヶ谷といったそう で、将軍が鷹狩りに来て谷を指した事に由来する地名だそうだ。寺の門前には、「江戸三十三観音札所十一番 聖観世音菩薩 八百屋お七墓所 天台宗圓乗寺」 とあり、二百三十三回忌の記念碑や、天明三年の紀年がある石標などが建っている。「南無八百屋於七地蔵尊」と染め抜かれた赤い旗が林立する、参道の左側に お七の墓はあり、なぜか三基も建っている。お七は、天和三年三月二十九日(1683)、癸亥の年に鈴が森で、火刑に処された。今から324年前、行年16 歳の時である。真ん中の小さい供養塔が、当時の住職の建立した一番古いものだそうだが、建立年は不明。右側は、歌舞伎で当たり役をとった、岩井半四郎が寛 政(1793)に建てた百十三回忌供養塔。寺の看板にはそうあるが、単純計算では1796年、寛政8年になるのだが...。そして、左側が、二百七十回忌に町 内有志が建てた供養塔だという。井原西鶴の「好色五人女」で有名になり、縁結びに利益があると、お七の墓石を欠いて持つことがはやって、最初の墓石が小さ くなったという話もある。


八百屋お七墓所

本駒込、吉祥寺の比翼塚
  吉祥寺は、元は水道橋付近にあり、明暦の大火(振り袖火事)で焼け、駒込に移って栄えた。曹洞宗の名刹で、「栴檀林」(僧侶の学問所)があり、常時千人を 超える学僧が起居していたといわれる。ちなみに、武蔵野市の吉祥寺は、水道橋の吉祥寺周辺に住んでいた人達が、大火のあとに移住してつけた名前だそうだ。
 お七の家は、駒込片町の有名な八百屋だったといわれ、地下鉄南北線の本駒込駅辺りにあった。この辺りは江戸時代から、野菜市場が栄えたところで、駅のそ ばの天栄寺境内には、「駒込土物店跡」の碑が建っている。吉祥寺は、ここから本郷通り(岩槻街道=日光御成道)を北へ500メートルほど行った右側にあ る。

 天和二年に、大圓寺から出火した大火で焼け出されたお七一家は、「吉祥寺に身を寄せ、そこの寺小姓と恋仲になった」と、井原西鶴が書いて以来、吉祥寺はそのことでも有名になった。圓乗寺が菩提寺だといっても、諸説紛々としてくるのは、このためである。


「栴檀林」の額がかかる吉祥寺の山門(享和2年=1802再建)を抜け、広い石畳の参道を行くと、左手の公孫樹の木の下に、「お七吉左比 翼塚」がある。公孫樹の大木を削ったような意匠の碑で、昭和41年に「お七生誕三百年」を記念して日本紀行文学会が建立している。目黒行人坂(大円寺)の 西運と、小石川指ヶ谷(圓乗寺)のお七が晴れて一緒になった粋な計らいとでもいうべきか、後に総持寺の貫首を務めた当時の住職が相当尽力したらしい。隣に は、昭和43年に駒込生花市場が建立した「花供養塔」も建っている。  

吉祥寺の碑林
 参道を進むと、鐘楼の前に碑林がある。手前の巨碑が「甕江先生之碑」で、宮中顧問官を務めた漢学の大家、川田剛の墓誌銘である。明治41年の建立で、篆 額を田中光顕、撰文は三島中洲、書丹は壻で東京商科大學教授などを務めた杉山令吉(三郊)。楷書碑で、井亀泉が鐫している。


吉祥寺碑林

隣の碑は、甕江の主君で、幕府老中であった「板倉松叟の墓碑銘」。これも三島毅の撰文で、 題額は徳川家達、書丹は巌谷修(一六)。楷書碑で井亀泉の刻字。見事な碑である。


甕江先生之碑

 その隣は、「三桃之碑」、桃井可堂の碑で 明治29年建。撰、書とも尾高惇忠。次は「をどり塚」で碑陰に「碑面の句と書 梓月籾山仁三郎」とあった。
 最後の「田邊君之碑」は、明治40年の建立で、碑主は田邊良顕。三島毅が撰文し、題額を松平康莊、書丹は青木脩で、これも井亀泉が刻している。


板倉松叟の墓碑銘

鐘楼と経蔵の間の植え込みには、「小出浩平先生顕彰歌碑」があり、『こいのぼり』の楽譜が刻まれている。小出は、学習院教授、東邦音大副学長などを 務めた。昭和54年の建立で今成青巒が書している。経蔵西側は広大な墓地で、「眉山川上亮墓」が????????????εある。硯友社同人の建てた もので、隷書の文字に風格があった。

 墓地の、奥には柵で囲まれた榎本武揚の墓所がある。「陸軍中将子爵榎本武揚墓」と楷書で彫られた立派な墓で、元帥海軍大将伊東祐享書とあった。 隣にあ る、夫人の墓は、なんと西川元譲(春洞)の書丹である。明治26年11月薨とあるから、武揚の存命中に、春洞が揮毫を依頼されたのであろう。墓表には、隷 書で「慧光院殿皓林珂月大姉」とあり、残り三面に隷書で墓誌銘を刻んでいる。撰文は、金鷄間伺候田邊太一、刻字は湧田琮石。

武揚墓右側の、貴族院議員榎本武憲の墓も立派な隷書だが、書き手の名は無い。

 鐘楼そばから本堂脇まで続く北側の墓地は広大で、二宮尊徳や南町奉行鳥居耀蔵などの墓がある。明治期に、隷書で有名だった「中根半嶺、妻房子墓」が、尊 徳の墓の先、左手にあった。夫人が亡くなった明治41年の建立で、半嶺は大正2年に没しているから、墓表の題と墓誌は半嶺の隷書であろう。隣に、子息であ る中根半湖のやはり隷書で書かれた墓がある。

 墓域にはほかに、「大脇譲翁墓表」明治28年、川田剛撰、題額。「乙牧正貞墓碑」明治23年、川田剛題額、秋葉斐撰文、鈴木大輔書丹。「林先生碑」明治 44年、玉木愛石書、石井育壽刻。「土屋國蔵墓碑」大正15年、杉山令吉撰、書。などがあった。「一瓢小谷正雄墓」(明治20年)は、自撰、自書、自鐫の 珍しい楷書碑。


榎本武揚夫人墓誌

駒込の富士
  本郷通をさらに北へ行くと、富士神社がある。江戸の富士信仰で栄えた神社で、富士を模した丘の上に社殿がある。元々は東大の辺りにあったが、加賀藩が上屋 敷として一帯を賜ったことでここに移転した。かつて東大周辺を本富士町と言ったのはこれに由来する。 江戸時代、駒込は茄子の産地で、「駒込茄子」はブラ ンド品であった。近くの都立駒込病院の辺りには、鷹匠の屋敷があり、ここの富士と併せて駒込は「一富士、二鷹、三茄子」の揃った、名所なのだそうだ。

 入り口の鳥居横には、山の絵の下に、大きく富士と刻した標石があり、草書の文と天保十年の紀年があった。社殿へ続く急な石段の前や左右には、「加州」 「鳶」などと刻した奉納碑に混じって、纏を刻したものや、まさかりを組み合わせたマークに奉納加賀鳶と書いたものなどもあって面白い。加賀藩が、尽力した のであろう、富士神社には、これら「加賀鳶」の奉納碑が数多く残る。奉納碑の文字は、ほとんどが朱で塗られていていささか興ざめだが、増上寺にある「め 組」の碑も塗られていたから、派手なのがしきたりなのであろう。
 社殿の横、女坂の上部に碑があった。「堂田景延君記念碑」とあり、警視庁消防本部長などを務めた人の記念碑であった。昭和8年建、床次武二郎篆額、松井茂撰。この社と、消防との関わりは、今も続いているのであろうか。


富士神社碑林

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