美術学校校長および博物館美術部長の職を追われた天心は、同31年10月谷中に美術学校を連袂辞職した橋本雅邦、菱田春草、横山大観らと日本美術院を開院した。日本美術院は内部研究会を充実させ、春秋に全国巡回の展覧会を開催した。この美術院の事業は美術学校の理念の継承と共に、新しい国民芸術の創造を意図した実験的な場でもあった。
「朦朧体」
横山大観、菱田春草等は、西洋画の画法を取り入れた新たな画風の研究を重ね、やがて線描を大胆に抑えた没線彩画描法の新しい日本画法を確立した。岡倉天心の指導と、洋画の外光派に刺激されて、伝統的な線描を用いずに彩描を空刷毛でぼかすことによって、空気や光線などを表わそうとした。しかしその先進的な画風は当時の日本画壇の守旧派から猛烈な批判を浴びた。現在ではその画風を的確に表す言葉とされる「朦朧体」という呼称も、当初は「勢いに欠ける、曖昧でぼんやりとした画風」という意味で、批判的に使用された言葉であった。
横山大観(1868-1958年)は学齢時代から洋画家・渡辺文三郎に鉛筆画を学び、東京美術学校を受験の際に鉛筆画から毛筆画へ変更して美術学校に合格した第一期生であった。菱田春草(1874-1911年)は狩野派の結城正明の画塾で学び、美術学校の第二期生で学校での師は狩野派の末裔である橋本雅邦であった。春草は大観、下村観山とともに、当時美術学校校長であった岡倉天心の強い影響下にあった。卒業後、明治28(1895)年帝国博物館の委嘱を受けて、大規模な古画模写事業に参加、京都や奈良をめぐった。
インド渡航と米欧への紹介
日本美術院での活動が保守的風潮の批判や揶揄によって行き詰まりを見せ始めるとともに、美術院の財政が逼迫するなか、天心は明治34(1901)年、念願のインド旅行に出立する。横山大観、菱田春草は明治36(1903)年にインドへ渡航。天心は明治37(1904)年にアメリカ、ボストン美術館の東洋美術専門員になってから、1年の半分はボストンに滞在する生活となった。明治37(1904)年には天心は、大観と春草とともにアメリカ国内を渡り、ヨーロッパを経て翌年帰国した。
日本美術院の経営はますます困難となり、ついに明治39(1906)年の秋、茨城県北茨城市の五浦の岬に土地を求めて日本美術院の研究所を建てた。天心と横山大観、菱田春草、下村観山、木村武山の4人が家族と生活する住居を設けて移転し、4人は自由で個性的な新たな表現を追求したが、天心は積極的な指導を行うというより思想的な示唆を与えるだけで、六角堂での思索や釣りに明け暮れた。
天心の東洋の理想に基づく美術思想は、明治34(1901)年、インド旅行に旅立つ前に英文で執筆された『東洋の理想』(出版は1903年)、『日本の覚醒』(1904年)、『茶の本』(1906年)である。(公刊された『東洋の理想』と『日本の覚醒』との間の期間に執筆された『東洋の覚醒』は天心がインド旅行の際、タゴールの家で、インドの改革者との交友や遭遇したインド解放運動の興奮のうちに書かれた激越な書で、公表を断念したものである。)
「アジアは一つ」
岡倉天心が1年弱に渡るインド旅行に旅立つ前に起草したのが『東洋の理想』(The Ideal of the East)(出版年、明治36⦅1903⦆年)である。この本の冒頭は次のような詩的な文章である。
「アジアは一つである。ヒマラヤ山脈は、二つの強大な文明、すなわち、孔子の共同社会主義をもつ中国文明とヴェーダの個人主義をもつインド文明とを、兩者をただ強調するだけのものとなって、相分かっている。しかし、この雪をいだく障壁さえも、究極・普遍的なるものを求める愛の広いひろがりを、一瞬たりとも断ちきることはできないのである。そして、この愛こそは、すべてのアジア民族に共通の思想的遺伝であり、かれらをして世界のすべての大宗教を生み出すことを得させ、また、特殊に留意し、人生の目的ではなくして、手段をさがし出すことを好む地中海やバルト海沿岸の諸民族から、かれらを区別するところのものである。」(『明治文学全集38 岡倉天心集 亀井勝一郎・宮川寅雄編』6~7頁 1968年筑摩書房)
冒頭の一語「アジアは一つである(Asia is one)」は天心没後、とりわけ1940年(昭和15 年、皇紀2600 年)以降、アジア侵略の合言葉のように喧伝されることとなった。帝国日本が「大東亜共栄圏」を掲げて、帝国主義時代の西欧列強諸国の支配下にあったアジアを、日本が盟主となって解放すべきと説いた主張であり、その主張の正当化に寄与した理論的根拠となる思想とされた。しかし、晩年に天心が述べたこの言葉は、どのような意味を担っているのか、その内実を考えてみなければならない。
「アジアは一つ」の内実
まず、ヒマラヤ山脈が中国文明とインド文明を地理的に強調して分かつものとされている。しかし、地理的に障壁となっていても、歴史的に(時間的に通時的共時的に)この二大文明が共通の思想的基層をもつことの表明である。この思想的基層をなすものは、中国・インドの文明が究極のもの、普遍的なものを希求する愛の広がりである。この愛がアジアの人々(民族)に共通であって、世界の大宗教を生み出したものである。そして、このような普遍的な人生の目的を追求するのでなく、自己の民族の特殊な目的を達成するための手段に注力する地中海沿岸(イタリア・スペイン・フランス・エジプトなど)やバルト海沿岸(アングロサクソン系、ノルマン人・ゲルマン人など)の民族と区別される、と言う。天心の意図は、インド・中国・日本などのアジア諸地域間に見られる、文化的な次元での理念的通時性共時性を称えることにあった。さらに、中国、インドの二大文明の王朝や体制や民族の興亡を辿り、また、それらの宗教の変遷による芸術文化の遺産を真に貯蔵しているのが、日本芸術であり、日本はアジア文明を解明できる歴史的系統的な博物館となっていることを証明しようとする。
この天心の思想を支えるのは、不二元論 Adbaitim の精神である。「日本はアジア文明の博物館となっている。いや、博物館以上のものである。何となれば、この民族のふしぎな天性は、この民族をして、古いものを失うことなしに新しいものを歓迎する生ける不二元論(アドヴァイティムズ)の精神をもって、過去のすべての面に意を留めさせているからである」(同上8頁)。「日本の芸術の歴史は、かくして、アジアの諸理想の歴史となる——相ついで寄せてきた東方の思想の波のおのおのが、国民的意識にぶつかって砂に波跡を残して行った浜辺となるのである。…けだし芸術は、インドラの金剛石の宝網のごとく、その宝珠の一つ一つに全連鎖を映しているものだからである。…その発展のある一つの段階について論述することは、それの過去と現在とを通ずる無限の原因結果を扱うことを意味する。…およそ日本の芸術理想の歴史なるものは、その芸術がいわば宝石のようにはめこまれている多様多彩な環境と、たがいに相関的な種々の社会現象とに、西洋がかくも無知でいるかぎりは、ほとんど企て及ばざるものである」(同上8~9頁)。
ここには、天心の芸術史(美術史)の歴史的系統を総合的な因果関係で捉えようとする美術学校時代の「日本美術史」における近代的方法が貫かれている。
不二元論 Adbaitim
そして、この後年の思想においては、アドヴァイティムズという根本的思想基盤に行きついている。『東洋の理想』の序文は、カルカッタ(コルカタ)にヴィヴェーカーナンダの女学校を作ったアイルランド人の弟子、マーガレット・ノーブルが書いている。「岡倉氏を日本のウィリアム・モリスであると言うならば日本美術院は一種のマートン・アベイ(モリスのロンドン郊外の美術工房)である」(同上3頁)。「岡倉氏のごとく、アジアを…地理的断片の寄せ集めとしてではなく、おのおのの部分が他のすべての部分に依存し、全体が単一の複合的生命を息づいている一つの統一された生ける有機体として示すことは、この上なく価値のあることであります」(同上6頁)。
アドヴァイティムズは、天心がインド旅行で出会ったスワミ・ヴィヴェーカーナンダ(1863-1902)の唱えた教えで、8世紀のシャンカラに始まるヴェーダーンタ学派の学説、哲学的立場を受け継ぐ思想である。アドヴァイタ・ヴェーダーンタ(不二一元論ふにいちげんろん)と通常呼ばれている。不二一元論は、ウパニシャッドの梵我一如の思想を踏まえているもので、宇宙の根本原理ブラフマン(梵)は外界に存在する全ての物と全ての活動の背後にあって、究極で不変の現実であり、アートマン(我)は意識の最も深い内側にある個の根源を意味する。アートマンは個の中心にあり認識をするものである。ブラフマンとアートマンはまったく同一であり、ブラフマンすなわちアートマンのみが実在し、それ以外のいっさいは無明に基づき、あたかもマヤ(幻影)のように実在しない。
「禅」
『東洋の理想』のもう一つの柱は仏教の精神、特に禅の教えである。
仏陀生誕の地はネパールとインドの国境近くとされているが、「 仏陀の託宣は、魂の自由の託宣であり…彼が、かの民族(インド)の根本理念を体現し、そのことによってインドの観念論をその最高の強烈さで普遍化することに於て、ガンジス河と黄河とがそこでその水を混融させる大海となっていることはたしかである」(同上20頁)。七世紀以降、天心は新しい時代の到来を提示する。「アジア思想の全体が、仏教が見せたインドの抽象普遍的なるものの遙かなる幻を越えて、澎湃として湧き立ち流れ、その最高の自己啓示を、宇宙そのものの中に認識しようとしていた」(同上29頁)。「全宇宙が原子の一つ一つに顕現しているということ、したがって、おのおのの変種はいずれもひとしく真正であるということ、万物の一体ということと関係のない真理は存在しないということ、これが、科学に於けるインド人の心を解放する信念で」(同上)ある。「物心合一の理念は、日本の思想に於てさらにいっそう強力となり、ついには両概念の完全な融合が達せらるべき運命にあった」(同上33頁、平安時代)。
「足利時代」
天心は、足利時代について「近代芸術の真の音調、すなわち文学的意味に於ける浪漫主義、を打ち鳴らしている」(同上41頁)と称える。西洋の芸術史における発展段階を援用して、東洋の「象徴的、形式主義的」時期、物質的形態の法則が精神的なるものを圧迫した時期(エジプト・アッシリア・周および漢・奈良時代はじめまで)、「古典的」時期、精神と物質との合一の次期(ギリシア・ローマ・グプタ朝のインド・唐・奈良朝の密教)、そして、近代の個人主義が精神の自由となる浪漫主義の時期、「精神はかならずや物質を征服せねばならず、西洋と東洋との精神の相異なる特性が相異なる表現にみちびくとは言え、全世界の近代の思想は、不可避的に、浪漫主義へと赴くのである。…足利期の名匠たち(雪舟・雪村ら)の時代この方、…着実に東洋的浪漫主義の理想——すなわち、芸術に於ける最高の努力としての精神の表現——を守り通してきた」(同上41頁、足利時代)。ここに見られる西洋芸術史の発展段階とは、ヘーゲルの体系に於ける「芸術」の発展と同様であり、さらに内容的にはドイツ・ロマン主義(シュレーゲル兄弟やノヴァーリスなど)を想起させるものである。
日本浪漫派
この精神の自由たる浪漫主義、天心は東洋的浪漫主義とも言うが、日本浪漫派とは無関係である。「アジアは一つである」「日本はインド・中国の二大文明の貯蔵庫」「アジアの文明が西洋化の物質文明によって死滅するのに対抗する伝統様式の回復」といった東洋的浪漫主義の主張は、日清・日露戦争を国民独立戦争に勝利した明治精神の発露と捉えて日本を讃える日本浪漫主義とは別物である。浅野晃はこの天心の足利時代を「剣の精神」(『岡倉天心論攷』130頁、永田書房、1989年)と読みこむ。天心が鎌倉時代の武士の益荒男振り(ますらおぶり)をヨーロッパの騎士道の個人主義の精神に近い英雄崇拝と英雄的ロマンスの時代になぞらえたが、足利時代は中国の老荘思想が鎌倉期に優勢になってきた禅の思想と結びつき、鎌倉の戦闘的英雄が「完全に東洋化した。…剣を用いることではなくて、剣であること…すべてのものが霊の中に求められた(協調は原文のまま)」(『明治文学全集38 岡倉天心集 亀井勝一郎・宮川寅雄編』43頁 1968年筑摩書房)と、記述している。「…精神性とは、事物の精髄もしくは生命、万物の霊の特性化、内に燃える火、と観念されたのであった。美が宇宙に遍在する根本枢要の原理であった——それは、星の光の中に、花の紅の中に、行く雲の中に、流れる水の運びの中に、そのきらめきを見せた」(同上43頁)。保田與重郎は天心を「明治の変革期には、すでに世界精神を体現した天才」と呼び、法隆寺での発見を「元来のロマンチスト天心はそれらを研究や考証から進んで展いたのではない。彼の詩人が英風が、原始にロマンチックな世界精神を以て生まれ、『アジアは一也』のテーゼを見出した」とする(「明治の精神—二人の世界人」『近代日本思想体系36 昭和思想集Ⅱ 編集・解説 橋川文三』筑摩書房 275-276頁 1978年)。
天心の捉える足利時代は、保田に代表される日本浪漫主義の心情的な直観による献身や自己犠牲、哀惜や自己満足的な主観の拡張の時代ではない。そうではなく、物心合一、自然の中に己を認識し、自然と我との一体化の時代である。人間の霊(精神性)はそれ自身、仏性であり、特殊の中に顕現する普遍が燦然と輝きを放つに至るものである。「自由は、ひとたびそれが達成されると、万人を全宇宙のもろもろの美に歓喜し愉悦するにまかせた。かれらはその時自然と一体になり、自然の鼓動が同時にかれら自身の内に脈搏つのを感じ、かれら自身も自然の息吹を宇宙の大霊と一体となって呼吸しているのを感じた。人の生は、同時に小宇宙的であり大宇宙的であった。生も死もひとしくひとつの普遍的存在の異なる相にすぎなかった」(同上43頁)。
インドのヴェーダーンタ哲学の「梵我一如」の思想が、物心合一として自然(宇宙)と人間(個)とが一体化し、生も死も一つの普遍的存在(仏性)の表れにすぎない。その思想は中国仏教の禅の教えとなって、足利時代の日本に結実する。禅とは自己の存在の本性を見抜く術であって、それは束縛からの自由への道を指し示すものであった。
日本の再覚醒
幕末から明治期の日本国民の覚醒について、天心は声を大にしていく。「国民の再覚醒の第二の原因は、疑いもなく、アジアの地に対する西洋の侵略がわが国の独立を脅かした不吉な危険であった。…われわれは、われわれのもっとも神聖な記憶の聖地であるインドが、その政治的無関心、組織の欠如、対立する利害のつまらぬ嫉視などのために、その独立を失いつつあるのを見た」(同上52頁)。「アメリカのペリー提督の到来…この時、日本は、目覚めたその国の国民生活の意識をもって、古い過去の衣を脱ぎ捨て、新しい衣裳を身にまとうことに熱意を燃やした。国家の独立にとって非常に危険な東洋主義の幻夢(マヤ)でわが国を縛り上げていた、中国およびインドの文化の桎梏を断ち切ることが、新日本の組織者たちにとって最高の義務のように思われた」(同上54頁)。しかし、「われわれのところへ届いた芸術は、その最大の退潮期に於けるヨーロッパ芸術であった。」天心にとって、最新のヨーロッパ芸術として認識されていたのは、「世紀末の唯美主義…官学的明暗法を排除したドラクロア…新たな光と色彩のミレーやバルビゾン派…ラスキンのラフェエル前派の解明」(同上55頁)であった。
この記述から分かるように、最新の西洋芸術は、産業革命期以降の西洋の規格化された大量生産の、消費される美術工芸品に対し、中世風のきめ細やかな手仕事に帰り、生活と芸術、自然と人間の一体の回復に向かう新たな芸術の再興であった。
「展望」
最後に、天心が「展望」として提唱するのは、西洋と対照したアジアの理想、アジアの個性の養成である。「アジアの栄光は…すべての人の胸に脈打つ平和の鼓動の中にある。帝王と田夫とを合一させる調和の中にある。あらゆる共感、あらゆる礼譲をその結果たらしめるところの、崇高な同心一体の直観の中にある(太字は筆者髙橋)。…これらのものが、アジアの思想、科学、詩歌、芸術の秘められた力である。みずからの伝統から切り離されたインドは、その国民性の精髄である宗教生活を不毛にされて、卑しきもの、偽れるもの、新しきものの崇拝者になろうとしているかも知らない。中国は、精神文明にあらずして物質文明の諸問題の上に投げ出されて…往古の威厳と倫理との、断末の苦悶に悶えようとしているかも知れない…ここに於て、今日アジアのなすべき仕事は、アジア的様式を擁護し回復する仕事となる。しかし、これをするためには、アジアみずからがまず、これらの様式の意識を確認し発達させなければならない。…生命はつねに自己への回帰の中に存する。…内からの勝利か、それとも外からの強大な死か」(同上58~60頁)。
「アジアは一つである」という天心の唱道は、インドや中国の置かれた現状に対する批判であり、美によるその復興へのエールであり、アジアの再生への呼びかけであった。(*旧漢字は新漢字に改めました。)
天心の晩年の『泰東巧藝史』は明治43(1910)年に東京帝国大学文科大学における講義筆記である。当時の総長が浜尾新であり、文化大学長が井上哲次郎であったことが機縁となった。「東洋・東亜的」という語が日本・中国・朝鮮を主とする名称であるのに、これに関連してインド・アッシリア・バビロニア・ペルシャ等まで及ぶので、「泰東」という名称が妥当である、と言う。また「巧藝」と呼ぶのは、美術品のみならず工芸品を含めて相互関係も解明するので「巧藝」(美術工芸)の歴史とする。この『泰東巧藝史』の方針を天心は次の五つとする。
(1)意匠とテクニック——手訣(手法)を解明する
(2)前後の時代を研究する
(3)類似した巧芸品の相互関係を研究する
(4)巧芸の文明史的研究及びその時代の諸文化(政治・宗教・経済等)との関係を比較攻究すべきこと
(5)作品の優劣を批判し、妙味を玩味すること、およびその応用
この巧芸史で重点を置いている点は、これまでの天心を含めて、芸術史をその観念(妙想、イデア、精神、あるいは文学的内容など)の観点を重視して、そこから芸術を高尚/卑俗、あるいは実用/純粋といった評価付けを行って、芸術にヒエラルキーを持ち込むことに対する反省である。それに対し、ここでは芸術を人々の営為たる文明の精華として、歴史的、諸文化的関係の集積として捉えるため、より具体的な事実・事象に基づいて実証的に論じようとしている。そのために、いわゆる形而下の事柄、内容に対して形式を重んじる。描き方(描写)・体質(テクスチャ―、材料の質感や感触、特徴や表面の様子等)・絵具等、具体的事実に基づいた形式の重視である。また、旧来の文献や鑑定に関しても、狭量で限定的であって誤りも多い。西洋の記録も同様で、西洋には西洋の偏見があり、すべてを欧州本位としてしまう。従って、「巧芸史の研究には系統と時代を区別する要あり」と、天心は述べる(「泰東巧藝史」『明治文学全集38 岡倉天心集 亀井勝一郎・宮川寅雄編』255-258頁 1968年筑摩房)。
「緒論」でこのように述べて、天心は詳細な表や図を駆使して、具体的に巧芸史を展開する。中国古代の周・漢から初めて、外国との関係という観点からインド・アッシリア・ギリシア等とにも触れ、六朝・三韓・飛鳥朝へと詳細に論述する。
論述の詳細を追うのは避けて、ここでは最終的に「書」に関して述べている論説を紹介する。
東洋芸術の独自性と書の本質
明治44(1911)年、ボストン美術館での研究会報告。「東洋芸術家の技法は、彼等の自然に接近する態度を決める一助となる。…東洋芸術は絵画的で、西洋芸術は彫刻的な味がある。東洋芸術は線であり、西洋芸術は造形の表現に興味を抱く。東洋芸術は二元を表し、西洋芸術は三元を表す。…過去に於ては書芸と絵画は同一であったと言う。支那では象形文字が喜ばれ、その表意文字は絵画的であった。その絵画は書芸的であった。…今日ですらも優れたる書は純粋な線の音楽として、東洋芸術分類上最高の地を保っている。…この線による描写、この二元的表現は支那及び日本に限られているのでなく、全アジア藝術の特色である」(「東洋美術に於ける自然」同上363-365頁)。
「書の行方」
明治28(1895)年の第四回内国勧業博覧会では、区分は「第二部美術及美術工芸」となり、美術と美術工芸とが並列された。書は「第二十二類 版、写真及書」の中の「其三書」の区分となり、出品は8名・9点と激減している。第五回は明治36(1903)年で「第十部美術及美術工芸」から「書」の区分が廃止されている。書の殖産興業への貢献の低さが関連していると思われるが、第三回( 1890年)の審査報告では、「書法の頽衰(たいすい衰頽)」が指摘されていた。第四回では、前回よりも「著しく退却し」「衰替の極に至らん」とする。また出品拒否の鑑別では、第三回は77%、第四回は88%に至るとされる。書は衰退の道を辿っていった。書は美術にあらず、といった評価が一般的になったことが窺われる(柳田さやか『書の近代——その在りかをめぐる理論と制度』森話社72~78頁2023年)という。一方で、明治後期の書道界は会派活動が活発となり、会派雑誌や展覧会活動が全国的に盛んになっていた。その中で、書道界から政府や産業界への働き掛けも行われていたが、大きな力となるのは困難であったため、書の団体が設立され、書の自立が図られた。団体内での主従関係や競争による序列や役職をめぐる軋轢も起こった。結束を強化すると同時に排外的な動きも多かった。その中で「書の美術性」をめぐる主張も登場したが、目立った成果はなかったと言える。
「比田井天来」の改革
比田井天来(1873-1939)が長野県の郷里から上京して小石川区哲学館に入り、哲学と漢学をおさめ、かたわら日下部鳴鶴に書法をたずねたのは、明治30(1897)年であった。天心が東京美術学校を追われる1年前である。
翌31年に、天来は二松学舎に転学して、漢籍や金石文字學、各書体の字学を研究し、校長三島中洲の愛顧を得た。33年には鎌倉円覚寺の管長、釈宗演について禅を修めた。明治34(1901)年、文部省中等教員習字科免許状を受け(哲学館が文部省検定試験の認許可学校であった)、東京陸軍幼年学校習字科教授嘱託となり、36年に陸軍幼年学校助教授に就任。当時から渡辺沙鷗・久志本梅荘・若林快雪らと親交を結んで、書名を高めた。鳴鶴を中心とした講話会・談書会に参加。大正3(1914)年、鳴鶴より雑誌『書勢』の運営を任された。日本各地への遊歴活動を開始する。この頃から、松方正義侯爵の知遇を受け、松田南溟とともに新しい用筆法の発見をした。大正4年東京高等師範学校習字科講師を嘱託され、翌5年から8年まで内閣教員検定委員会臨時委員となって、天来の書道改革の柱である古法帖の臨書ならびに口頭試問で古法帖の鑑定を出題した。それまでは、「こ器用に文字を書ければ能事終われりとしていた」(野本白雲「書道」『近代書道開拓者 比田井天来・小琴』佐久教育会編 209頁1968年)が、天来は習字科教員の検定試験の変更を通じて、書道教育の改革に乗り出した。
「書学院」の建設
天来は大正8年、書道の綜合的研究機関として「書学院」の建設に向けて「書学院建設趣旨書」を起草した。前年の「書道館建設辞」の改訂版であった。「書は昔から東洋で尊重されている。優れた書は、作者の心が芸術的に美化されて点画の中で活躍し、見る人の心と共鳴して高遠な妙境に導き、俗世間から超越できる。さらにこれを学べば、心は霊妙な暗示を得、いかに偉大な感化を受けとることであろう。…一時期書道が衰退した理由は二つある。一つは人間がこざかしく誠意に欠けたこと。もう一つは細かい流派に分かれ、書の大海を忘れてしまったことだ。書の大海とは歴代の古典名品である。…ああ、流派はなんと我が文芸に害毒を与えてきたことだろう。今こそ従来の弊害を打破し、書道研究の一大革新をはかる時だ。誰でも歴代大家の劇蹟を閲覧でき、自由に古典を選んで学べる研究所として書学院建設の急務を絶叫するものである」(「書学院建設趣旨書」現代語訳要約 比田井和子『現代書道の父 比田井天来』30頁 天来書院 2009年)。
賛同者
賛同を得た署名は、犬養毅・男爵細川潤次郎(貴族院議員。枢密顧問官。文人)・頭山満(国家主義運動家。国会開設請願運動の後、玄洋社を興し、次第に国権論、アジア主義の主張を強める)・大谷光瑞(浄土真宗本願寺派第22世法主。伯爵。西域探検のためインドに渡り、仏蹟の発掘調査に当たった。大谷探検隊隊長)・伯爵樺山資紀(海軍大将。初代台湾総督。第2次松方内閣で内務大臣、第2次山縣内閣で文部大臣)・嘉納治五郎(講道館柔道の創始者、教育者。貴族院議員。東大でフェノロサの薫陶を受けその指導の下、政治学、経済学、哲学、倫理学、審美学を学んだ。東京高等師範学校校長)・日下部東作(鳴鶴)・侯爵松方正義(第4、6代内閣総理大臣。初代、3、5、8代大蔵大臣。金本位制を確立し、日本銀行を設立した)・伯爵松平直亮(華族。貴族院伯爵議員。育英会総裁)・股野琢(日本の儒者。帝室博物館総長、宮中顧問官)・小牧昌業(漢学者。官僚。内閣書記官長、官選県知事。貴族院議員)・男爵後藤新平(台湾総督府民政長官。南満洲鉄道初代総裁。関東大震災後に帝都復興計画の立案、推進した)・沢柳政太郎(文部次官。教育者。貴族院勅選議員。変体仮名を廃止し、歴史的仮名遣いの廃止を検討した)・三島毅(中州、漢学塾二松學舍の創立者。大審院判事。東京帝国大学教授、東宮御用掛、宮中顧問官)・釈宗演(臨済宗鎌倉円覚寺管長。参禅した弟子に鈴木大拙、夏目漱石、松平直亮、浜口雄幸、伊澤修二らがいる)・伯爵土方久元(宮中職多し。宮内大臣。國學院大學長、東京女学館長などを務めた)・国外粛親王(中国清朝末期の皇族。善耆(ぜんき)をさす。義和団事件後、民政部大臣(1911年)、辛亥革命に対しては宗社党に加わって反対。日本軍部と結んだ大陸浪人らの策謀に乗って満蒙独立運動を画策したが失敗。なお,東洋のマタ・ハリと呼ばれた川島芳子は善耆の娘)。
天来の書道改革
天来は書道をその目的に合わせて、読むことを主眼とする実用書と賞鑑(鑑賞・玩味)を主とする芸術書と区分した。「芸術書は作者その人を表現し更に作者その人の時々に変化する性情までも是をその作品中に表現して、個性を発揮することがその目的である」とする。そして、「書に一番大切のものは、筆勢と筆意とである」という(『天来翁書話』田中成軒編 誠之書院 1938年 341~343頁)。さらに書芸術の根幹を「筆意」と「結体」であると捉えた。「筆意」とは、書かれた漢字や文字の線の趣、表現力、表現性、つまりその線の持つ「魅き付ける力」のことである。篆・隷・楷・行・草の五体の書であっても、その書に習慣的な惰性や習気があっては、芸術的な感興は生じない。その「筆意」は「速・遅、曲・直、濃・淡、潤・渇、強・弱等の線の形」に拠る。
また「結体」とは「字形」のことであり、文字(漢字)の一画一画の独立、結合、連携等の配置の妙(調和)に拠る。例えば、六朝の王羲之派以外の楷書は隷書に近く、王羲之派の楷書は行書に近い。楷書を書くのに直角のみの組み立てでは無意味であり、風情がないから曲がりをつける。その曲の部分が筆意となる。隷書の横画は概して上に超出し、楷書は止めて筆を押さえるのが普通である。しかし、その楷書に隷書のような点画を加味すればその部分がすなわち筆意となる(『天来翁書話』同上158~160頁)。従って、書には筆意または結体に「奇なるところ(習慣的で無意味なオートマチックでない、書き手の人間的な意味を持たせた働き)」が必要なのである(同上161頁)。この「筆意」と「結体」によって、書き手のその場、その時の喜怒哀楽の感情ではなく、その人間の情操的な心奥そのもの(性情)が現れる(同上165頁)。こうした「筆意」を書かれた時間性を辿りながら、感得していくのが書の鑑賞であり、それを自ら実現していくのが書芸術である。
「臨書」
書が芸術として確立していくのが、中国古代から唐代に至る時代である。漢字の書体の変遷をあまねく学び、線質を理解し、実現できるように訓練しなければならない。特に五書体、篆書・隷書・楷書・行書・草書の古典を学ばなければならない。この天来の学書論は、「臨書(手本を学び、真似をすること)」の革新的な理論として結実する。大正期の天来の臨書論の眼目は、楷書では唐の四大家といわれる虞世南・欧陽詢・褚遂良・顔真卿などを範とする。行書では、晋の王羲之の『蘭亭序』、同じく王羲之の『集字聖教序』など、草書では唐の孫過庭の『書譜』もしくは、なるべくは王羲之の『十七帖』などをもって手本とする、そして日本では三筆(嵯峨天皇・弘法大師・橘逸勢の書)まで、と明言したことにある。
当時の日本の書道教育は、基本となる漢字、単語等を書き習い、庶民生活必須の内容を師の手本にを習う師風伝承の旧弊が持続しており、書の流派のセクショナリズムが蔓延して権威主義化していた。天来は、師の手本に従って習うのでは、師の書を超えることができないし、師風伝承は習慣と化し、流派の筆癖となっていく。また、自己流の書を個性としてそこに甘んじることは、惰性化し停滞に陥ってしまう。それゆえ、東洋の書道史の中で、書芸術が成立し、その根幹の規範として唐代までの書を臨書することによって、書芸術の基本を学ばなければならないと天来は主張した。
天来の活躍
こうした天来の主張は、大正6(1917)年の「(旧)書勢」掲載の「書道講演1、2、3(大正7年)」(内容は「書道の歴史と学習法」)、「書の形質および性情・書の巧拙」に関しては、大正8年の「(旧)書勢」における「巳青年の書道4、5」、臨書に関しては、大正10年「臨書第一期」、11年「臨書第二期」「臨書第三期」(「書道提要」)で発表された。そして「書における筆意と芸術書と実用書の相違」について大正10年の「書道提要」で提起され、昭和6年~7年の「書道春秋・実用書道」において「実用書及び芸術書の学習法」に関して入念な解明を試みている。
昭和7年、東京美術学校師範科、習字科の講師となって、書法の解説と学習法を講義する(昭和14年の逝去まで続く)。美術学校での天来の講義については、平成 31(2019)年3月の『比田井天来没後80年記念 天来の会書展』の基調講演で、柳田さやか氏が「天来は東京美術学校で何を教えたか」と題して詳しく報告している(『天来書院』HP、天来の会書展トップページで参照できる)。
天来が美術学校の講師となった背景には、昭和7年まで校長であった正木直彦の影響も想定される。正木は校長となって、天心の日本美術院と和解し、西洋派とのバランスを取りつつ、天心の伝統復興の意思も引き継いだ。帝国美術院院長で茶人でもあった。天来は、同年6月7月の「書道春秋第6号・7号」に天心の『「書は美術ならず」の論を読む』の全文を掲載している。美術学校の講師として、天心の論を参照したものと思われる。翌昭和8年には、天来の書学院に集った若い俊英の書家たちが、書の革新を目指して「書道芸術社」を立ち上げた。最晩年の昭和13~14年には遺稿の「実用字学」を「(旧)書勢・(新)書勢」に発表し、漢字整理事業に死ぬまで力を注いだ。
岡倉天心は「書」に関しては、中国宋代の「書画一体の南画・文人画」に「自然の中に己を認識し、自然と我との一体化」を見るものとして伝統的な見方で捉えている。「書は美術ナラス」の論争を経て、東京美術学校での「書」の美術的・芸術的養成に対し、新たに構想できるような方向はその時点では見つからなかった。天心の死後、10年を待たずに、天来が書論を展開し始め、書道の伝統を重んじながら、新たな「書芸術」の展望を開こうとしていた。
大正元年(1912年)、天心はボストンへの赴任にあたって、途中インドに立寄り、カルカッタのタゴール家の客となり、彼は一族の一員のプリヤムヴァダ・デーヴィ・バネルジーという女流詩人に初めて出会った。翌大正2(1913)年、病気静養のため日本に戻り、五浦で釣りに明け暮れた。8月赤倉の山荘で病を発し、9月世を去った。1955年に天心からベンガルの女流詩人に当てた19通の恋文が公開された。プリヤムヴァダ・デーヴィ女史(1873―1960)あての手紙だった。「『美わしい語り手の』『宝石の声の』とは、なんとあなたに相応しい名前をお持ちでしょう。私には自分が、あなたの魅惑の土地の、黄昏のうすらあかりへと飛びたつのが見えるようです。
…どうかあなたの詩の英訳を送って下さい。…詩の偉大さは、事物の内部の琴線に触れる力によって測られるものではないのですか? 一滴の水、蓮の葉をころがる真珠のような一滴の露には、大海そのものと同じ高遠で普遍的な理想の大海が含まれ得ないとでもおっしゃるのですか?…これら(あなたの詩)は私自身の悲しみ、私自身の歓びです。…1912年12月3日 岡倉覚三」
「プリヤムヴァダ」という名は「宝石の声の」という意味である。1913年5月17日付の手紙、「新年のお手紙が着きました。…お手紙で書かれているベンガルの正月の様子は、じつに日本の正月と似通っています。…ほんとうに、私たちはみな一体なのです。もし私たちが、雲を冠にいただいたどこかの山で出会うことができ、アジアの一体性(ユニティ)について、また東洋をより緊密に一体化するものについて、生涯のあいだ書きつづけることができたなら、尽きることのない歓びでしょうに。どうして私たちはずっとずっと以前に会うことができなかったのでしょう…」(大岡信『岡倉天心 朝日評伝選4』265-281頁 朝日新聞社1975年。 『岡倉天心アルバム』186-187頁 監修茨城大学五浦美術文化研究所、編中村愿 2000年)。
天心は、明治23年の「日本美術史」の講義にはじまり、明治34(1901)年、1年弱に渡るインド旅行の前に起草した『東洋の理想』(The Ideal of the East)(出版年、明治36⦅1903⦆年)に至るまで、インドと中国を中心とした二大文明の輝きを貯蔵しているのが日本美術であるとの信念をつらぬいている。そして、その輝きが「愛と平和」の普遍的な目的を追求する「アジアの理想」であると主張し続けた。この思想の根幹をなすのが「梵我一如」の不二一元論、物心合一の考えであり、自然(宇宙)と人間(個)とが一体化し、生も死も一つの普遍的存在(仏性)の表れにすぎないとする「禅」の教えであった。天心の死の4か月前に書かれたこの手紙には、天心と「宝石の声なる女性」との出会いが「アジアの一体性」の理想実現の遙かな旅路であったことが窺えよう。
【引用および参照文献 前編・後編】
『東洋学芸雑誌』8・9・10号(5・6・7月)小山正太郎、同誌11・12・15号(8・9・12月)天心。国立国会図書館サーチ(NDLサーチ)
『日本近代思想体系17美術』青木茂・酒井忠康校注 岩波書店 1989年
『明治文学全集38 岡倉天心集 亀井勝一郎・宮川寅雄編』筑摩書房1968年
『岡倉天心——芸術教育の歩み——』東京芸術大学岡倉天心展実行委員会 2007年
『岡倉天心アルバム』監修茨城大学五浦美術文化研究所 編中村愿 2000年
『書の近代——その在りかをめぐる理論と制度』柳田さやか 森話社 2023年
『日本近代美術論争史』中村義一 求龍堂 1981年
『日本美術史』岡倉天心 平凡社ライブラリー 平凡社 2001年
『日本とアジア』竹内好 ちくま学芸文庫 筑摩書房 1993年
『岡倉天心』大岡信 朝日評伝選4 朝日新聞社 1975年
『日本近代美術史論』高階秀爾 講談社文庫 1980年
『日本の近代美術』土方定一 岩波文庫 2010年
『近代日本「美学」の誕生』神林恒道 講談社学術文庫 2006年
『インド思想史』J. ゴンダ 岩波文庫 2002年
『近代日本思想体系36 昭和思想集Ⅱ 編集・解説 橋川文三』筑摩書房 1978年
『岡倉天心論攷』浅野晃 永田書房 1989年
『天来翁書話』田中成軒編 誠之書院 1938年 (飯島書店 1974年復刻再版)
『書の伝統と創造 天来翁書話抄』比田井天来 比田井南谷編集・校訂 雄山閣 1988年
『近代書道開拓者 比田井天来・小琴』佐久教育会編 1968年
『天来は東京美術学校で何を教えたか』柳田さやか 『天来書院』HP、天来の会書展トップページ 2019年
『現代書道の父 比田井天来』比田井和子 天来書院 2009年