〔特別寄稿〕

岡倉天心への道―前編 書ハ美術ナラス論争

髙橋 進

 岡倉天心の活動や思想に関して、明確な理解や評価が定まっているとは断定できない。評者の先入観や立場によって、天心の相貌は変化し、例えれば古代ローマのヤーヌス神のように前後に反対の二の顔をもつように思われている。後年に隠遁した五浦に立つ六角堂のように、多面的な相をもつ天心がどのような道を辿ったのか、考察してみたい。

東日本大震災の津波による被害の後、再建された五浦の六角堂


Ⅰ.明治維新政府による日本美術振興政策

 天皇を中心とする王政復古の明治維新によって成立した明治政府は、廃藩置県を実施して権力の集中を図り、天皇親政を基本として神仏分離の政策を実施した。これが廃仏毀釈という仏教弾圧の風潮を生み出し、各地で寺院や仏像を破壊する廃仏毀釈が引き起こされた。さらに西欧諸国にならって国民教育のために学制を公布、また徴兵令を公布して軍隊・警察制度を整備した。地租を改正して政府財政の安定化を図るとともに富国強兵のための殖産興業政策を実施した。政府の近代化政策と文明開化の風潮は、仏教美術・伝統美術の衰退を招くこととなったが、明治政府が初めて公式に参加・出品したウィーン万国博覧会(明治6年1873年)では、1300坪ほどの敷地に神社と日本庭園を造り、白木の鳥居、奥に神殿、神楽堂や反り橋を配置した。産業館にも浮世絵や工芸品、仏像や刀剣、伊万里・瀬戸・薩摩焼などの陶磁器など、多数出品した。これらはお雇い外国人、ドイツ人のワグネルの指導によるものであった。ワグネルは、日本では近代工業が未発達であるため、日本的で精巧な美術工芸品を中心に出展したほうがよいと判断し、日本全国から優れた工芸品を買い上げた。特に日本庭園と浮世絵や美術工芸品が絶賛され、欧州における日本ブーム(ジャポニズム)を引き起こした。これを契機に、日本では伝統美術・工芸の見直しが起こり、伝統保存の機運が高まった。端緒になったのは明治10(1877)年に開催された内国勧業博覧会の成功と明治12(1879)年に創立した龍池会(佐野常民や九鬼隆一らが古美術の保護と鑑賞のため組織した)の運動であった。東京大学に招聘(しようへい)されたアメリカ人フェノロサが龍池会で講演し,洋画を排して日本画を尊重すべきことを説いたことが,その機運をいちじるしく助長した。


フェノロサの『美術真説』明治15(1882)年5月龍池会での講演

 フェ ノロサ(Ernest Francisco Fenollosa 1853-1908)は,1876年ハーバード大学大学院を修了後,ユニテリアン神学校、マサチューセッツ美術師範学校に通った。大学時代は進化論の時代で、ハーバ―ト・スペンサーに傾倒し、社会進化論的哲学やヘーゲル哲学についても一般的に理解していた。東大理学部教授を務めていたエドワード・モース(大森貝塚の発見で有名)の推薦によって、設立2年目の東京大学の法理文学部教授に就任、明治11(1878)年に来日した。大学では政治学、理財学(経済学)、哲学などの授業を担当する傍ら、日本美術に関心を示し、日本画の蒐集と研究を開始。次第に日本美術の世界に没頭するようになり、狩野派の総帥、狩野永悳(えいとく)に師事して、日本と中国の絵画の鑑定法を学んだ。29歳のフェノロサが日本絵画の宣揚と改良を目的として行った、この『美術真説』の講演は鑑識と批評のための芸術基準を提示する試みである。全体と部分が内面の関係を保持して常に完全唯一の感覚を生じるのが美術の「妙想idea」であって、妙想のあるなしが美術と非美術とを区別する基準である、とする(『美術真説』「日本近代思想体系17 美術」43頁)。この「妙想」について高階秀爾は「精神的、思想的内容を持った構想」(高階秀爾『日本近代美術史論』「フェノロサ」191頁)と捉えているが、全体と部分とが調和的に統一して(精神的)内容を完全に一体化した感覚として表すものである。


西洋画と日本画との優劣

 フェノロサは西洋画と日本画との善悪得失(優劣・長所短所)を論じる。西洋の油絵が日本に伝わると、その新奇さが賞賛されて日本固有の絵が蔑視され、旧来の画家が排斥されて油絵が日本画を圧倒している現状をフェノロサは憂慮する。油絵と日本画の得失は、第一に、日本画と比較して、油絵は写真のように実物を模写する。自然の実物に擬似することは美術の善美(優秀さ)の基本ではない。近年欧州の画家たちは美術の妙想を問わない。近年、日本画でも写生を主眼として、妙想を顧みない傾向がある。第二に、油絵には陰翳があるが、日本画には陰翳がない。外国人はこれを不正とみなし、ひそかに嘲笑する。しかし、妙想の表現には陰翳は必須ではない。つまるところ、陰翳は濃淡を表す一方法なので、日本画では暗い部分は若干の墨をほどこすだけである。第三に、日本画では鉤勒(こうろく、輪郭線で囲い、その中を彩色する画法)があるが、油絵にはなく、ただ色彩の境界があるだけである。西洋では自然の実物は黒色の輪郭がないので、日本画は間違いであるという。もともと、鉤勒を施すのは、①線の美を増し、②統一性を優れたものにし、③筆力の美をあらわして、妙想を精確にするためである。欧米の画家が近年、鉤勒を使うのも当然である(新古典派からラファエル前派に至るまでの流行のこと)。第四に、油絵の絵具は豊富で濃厚であるが、日本画は軽疎で淡薄である。油絵具の豊富濃厚を誇っているが、これはよろしくない。色彩の美は各色の対比とそれらの調和によるもので、豊富濃厚に労力を使うと画術は退歩してしまう。第五に、油絵は繁雑錯綜しているが、日本画は簡潔である。私は日本画の簡潔さが勝っていると思う。簡潔であれば統一が得やすく、妙想を表現しやすい。油絵は無用の長物で妙想をそこなう。…かくして、日本固有の美術を消滅するのでなく、これを振興すれば日本人は世界万国において美術の首位を得るであろう。

 このようにのべて、最後にフェロノサは日本画術の振興方法を提起する。第一に美術学校の設立、第二に画家の補助奨励、第三は一般公衆に美術の本質を知らしめ、これを愛重し補助することである(『美術真説』「日本近代思想体系17美術」53~56頁)。


 このフェノロサの論述は、西洋画の油絵と日本画との差異を説明したものであるが、主眼となる妙想のあるなしを一方的に配置して日本画を擁護する論旨となっている。そこから、スペンサーの進化論的立場とヘーゲルの観念論哲学の思想的要素の結合した西欧美学の紹介であるとともに、新たな日本美術の振興を提唱するものであった。


Art――「芸術・技術」の未分化

 西欧のArt、Kunstは語源的には<技芸術>であり、「技術」であるとともに「芸術」であるようなものであった。このArtが近代にいたって、芸術と技術に分化し、「純粋芸術」と「実用技術」に分かれた。従来、日本の美術は書画であれ工芸であれ、技(わざ)であり、賞玩物であった。フェノロサの美術論はこうした日本の美術(純粋と実用の未分化)の現状を、美術としての定義を提示することによって書画・工芸の評価を高めるための、西欧の「Art分化」の後進国日本への「進化」への励ましであった。この明治15年の美術振興提言は当時の政治家、知識人、美術家に大きな影響を与えたのは間違いないであろう。この講演によって、日本美術が狭量な独善的な自己満足から、開かれた批評的価値のあるものとして認識される方向を誘った。

 しかし、問題はそれほど単純ではない。フェノロサは日本の文明開化の欧化主義のもつ実用主義的美術観に対して、美術の「妙想idea」のあるなしを基準とすることで欧化主義を否定する日本主義の主張であった。日本における西洋文物の急速な移植と急進的欧化主義、さらには対外拡張主義の孕む実利・利欲追求主義に歯止めをかけるとともに、日本伝統美術の前近代的な「芸術・技術」の未分化状態を抜け出させ、「実用的技術」だけではない「日本美術」の進化を促したのであった。


狩野派の現状

 江戸末期、幕府・諸藩の御用絵師であった狩野派は形骸化した粉本(ふんぽん)主義によって、独創性を失っていた。粉本とは絵の下書きのことで胡粉で書いたのでこの名になった。絵の技などを習得する上で、先人のものを模倣したもので、その模本は次に自分が教えたり描いたりする時の手本となった。この粉本主義は御用絵師として画家の技術を一定の水準に保つものであったが、しだいに画一的で創造性の乏しい作品しか生み出さなくなっていた。維新後、狩野派の絵師たちは、明治政府の欧化主義と仏教弾圧によって食禄を奪われ、生活苦のために筆を手放す者もいた。一方で、民間では琳派風の装飾的形式的で華麗な色彩を嫌い、また、伝統的な山水画よりも作家の心情や心境を画に託す文人画がこの時期の人々の感情を代表するものとして共感を呼んでいた。

 フェノロサはこうした日本美術の現状に異を唱え、文人画を排し、西洋画の推奨ではなく日本美術の粋である狩野派の復興に肩入れをして、美術としての日本画の近代化を奨励したのである。


Ⅱ.「書ハ美術ナラス」論争

論争の背景

 明治15(1882)年のフェノロサの『美術真説』の講演の背景には、もっと広範な時代背景が存在する。明治6(1873)年、朝鮮への対応を巡って木戸孝允(長州藩、桂小五郎)・大久保利通(薩摩藩)・岩倉具視(公家、右大臣)らと西郷隆盛(薩摩藩)・板垣退助(土佐藩)・江藤 新平(佐賀藩)・後藤象二郎(土佐藩)らが対立し(征韓論争)、その結果、西郷らが野に下った。こうした薩長藩閥による政権運営に対する批判が噴出し、また各地で不平士族による反乱が頻発して、明治10(1877)年には西郷らの反乱による西南戦争が起こった。各地で政治結社が勃興し、自由民権運動が盛り上がるようになった。明治政府は明治14(1881)年「国会開設の詔」を発し、明治22年の国会開設を約束した。

 一方、明治政府は国家の対外的威信と経済基盤の確立を目指して、殖産興業の政策遂行のために、明治9(1876)年に工部美術学校を開校した(後述)。そして明治10(1877)年に第一回内国勧業博覧会を開催した。この博覧会では、出品区分・褒章・審査制度を備えて、単なる自画自賛のショーケースではない対外的に通用する興業を目的としていた。

 この博覧会における「書」の位置づけを検討すると、第一回では、書は出品区分の「第三区美術」の「第二類書画」の区分であり、第二回内国勧業博覧会(明治14年1881年)「第三区美術」の「第三類書画」の区分でも、書が美術の区分に置かれている。「その理由として、書は西洋では美術に列しないが、書を貴ぶ『風土ノ慣習』によって、内国勧業博覧会の美術の区分に書を入れたことが窺える」(柳田さやか『書の近代——その在りかをめぐる理論と制度』森話社74~75頁2023年)。書に該当する第一回の出品者は28名36点であり、成瀬大域が「花紋賞牌」を受賞している。第二回は80名・102点の出品で、長三洲・日下部鳴鶴らが出品している。


工部美術学校と小山正太郎
 小山正太郎(1857—1916)は明治5(1872)年、川上冬崖の画塾「聴香読画館」に入り、塾頭になった。川上冬崖は幕府の長崎伝習所でオランダ書の翻訳を通じ、遠近法・製図・測量術などを研究して、石版画などの模写を行い、その後、画学局に入局した。維新後は自らの屋敷内に画塾「聴香読画館」を開き、小山正太郎、松岡寿らを指導した。塾頭の小山は明治7年、陸軍士官学校図画教授掛となった。

 明治政府は日本の近代化の一環として指導的な国家有用の美術家(技術者・芸術家)を育成するため、イタリアから画家のアントニオ・フォンタネージと彫刻家ヴィツェンツォ・ラグーザらの優秀な美術家を招いて本格的な西洋美術教育を開始し、同9(1876)年工部美術学校を開設した。工部省の付属機関であることから明らかなように、国家有用の美術とは国家・国民に寄与する美術であって、まず西洋美術を凌ぐような美術の生産によって国家の威信を高め、次いで国民の精神を高める美術、その後に国民の実用の美術を補助するという政府の殖産興業政策を色濃く反映して設立された美術学校である。小山はこの工部美術学校に入学してフォンタネージの指導を受け、その助手となった。フォンタネージの帰国後、工部美術学校を退学し浅井忠らと十一会を結成する。

フェノロサと岡倉天心の古美術・古社寺視察

 岡倉覚三(天心1863-1913)は明治13(1880)年、東京大学文学部を卒業した。その年以降、夏休みを利用して教師のフェノロサは関西地方の古美術見学と蒐集を行ったが、通訳として天心が同行した。これが天心にとって多数の古美術に接する最初の機会となった。天心は文部省御用係となり文部官僚の道を歩み始めた。明治15(1882)年に専門学務局勤務となり、9月文部少輔九鬼隆一の学事視察に随行して新潟・石川県を巡り、帰途に京・近畿地方の古社寺を訪ねた。明治政府の神道国教化政策による廃仏毀釈運動等により、古美術(日本画、仏教彫刻、建築、工芸品等)が市井に流出し、欧米人が安値で大量に持ち去ったり、破壊されるなど文化財が危機的な状況に陥っていた。こうした状況の中で明治政府も古文化財の調査と保存を図るようになっていく。

 伝統美術・工芸の見直しの気運とともに、国家に有用な美術、西洋美術を凌駕するような西洋美術教育を推進するためにも、書を含めた伝統的美術工芸に対して、美術のカテゴリーを明確にする論議が必要であった。

 明治14年の第二回内国勧業博覧会の後、こうした経緯のもとに明治15年の『東洋学芸雑誌』8・9・10号(5・6・7月)に小山正太郎が「書ハ美術ナラス」論を発表(小山25歳)、それに対し天心が同誌11・12・15号(8・9・12月)に「書ハ美術ナラスノ論ヲ読ム」の反論を発表した(天心19歳)。


小山正太郎「書ハ美術ナラス」

 小山はまず、書を美術として奨励する世間に対して三つの点を指摘して批判する。第一は「世間のもつ風説の誤り」、第二に「書を美術とする本質的理由の欠如」、第三に「書の奨励の悪結果」という三つである。加えて、第二の点を「書が美術的な<部分>をもつか」と「書は美術の<作用>をもつか」の二つに分けて、計四点の批判である。

 第一点は、「①書ハ固ト言語ノ符號ニシテ、他ニ作用アルニ非ス…故ニ其主旨タル唯タ意ヲ通スルニ在ルノミ、書ニシテ誤リ無ク意ヲ通スルヲ得ハ、即チ書ノ職分畢レリ…然ハ即チ蟹行ト云匕、鳥跡ト云フモ、其主旨職分等ニ至テハ、毫末モ異ナルコトナキ也」(『東洋学芸雑誌』第8号 173頁)。

 ①日本の書は西洋のヨコ(蟹行)文字と形は異なっていても趣旨や働きは同じであって、つまるところ言語の符号にすぎないので、誤り無く意味を伝えることがその役目である、と主張する。また、

 「②我邦ノ書ハ趣味アルニ由テ美術ナリト、是レ亦迷妄言ノ甚キモノナリ、凡宇内ノ万物一トシテ多少趣味アラサルハ無シ」(同上)。

 ②書は趣味があるので美術だというが、宇宙の万物は多かれ少なかれ趣味をもたないものはない。

 「③本邦ノ書ハ人ノ心目ヲ慰メ、人々之ヲ愛玩スルニ因テ美術ナリト、…書ヲ愛玩スルヤ真ニ書ヲ愛玩スルカ如クナレトモ、詳ニ之ヲ究ムレバ、実ハ書ノミヲ愛スルニ非ルナリ…或ハ其語句ノ己ノ意ニ適スルヨリ、之ヲ愛シ…或ハ其人ヲ慕フノ余リ、手蹟ノ存スル所トシテ之ヲ愛シ…或ハ年数ヲ歴シ所ヨリ、古物トシテ之ヲ愛シ、或ハ世上ニ稀ニシテ得難キ所ヨリ、奇品トシテ之ヲ愛シ、或ハ慣習ニ由テ之ヲ愛シ、或ハ雷同シテ之ヲ愛シ、或ハ就テ学バンタメ模範トシテ之ヲ愛スルノ類…枚挙ニ暇アラス…真ニ書ヲ愛スルニ非スシテ、愛スル所多クハ他ニ在ルナリ」(同上174頁)。

 ③人に愛玩されるから美術だという説があるが、愛玩されるのは書それ自体ではない。書かれている語句、書き手の人間、年代の古さで古物として、貴重な珍しさとして、または慣習から、皆が愛するから、手本としての有用性などから愛玩されるのである。さらに、

 「④本邦ノ書ハ房室ノ装飾ニ供スル、欧米ニオイテ画ヲ用ユルガ如シ、因テ美術ナリト、是レ亦論スル迄モ無キ妄ノ妄ナルモノナリ」(同上175頁)。

 ④日本の書は室内の装飾に役立てるが、欧米において絵画を用いるのと同じである。それ故美術だというのは妄説である。また、

 「⑤古ヨリ 書画同体ト称シ、画ハ書ヲ助ケ、書ハ画ヲ助ケ固ヨリ同根同種ナリ、故ニ画ヲ美術トセハ、書モマタ美術ナリト、是レ必ス文人画ノ題字ヲ以テ、画ノ位置ヲ助クヨリ起コリシ説ナルヘシ、実ニ笑フヘキノ至リナリ」(同上)。

 ⑤書画が同体であって、書と絵が助け合っているので、絵が美術であれば書も美術である、という説があるが、これは文人画の題字が文人画の価値を助けていることなので、笑うべきことだ。そして、

 「⑥書ハ、人心ヲ感動スルニ因テ美術ナリトコレ亦タ笑フヘキノ言ナリ、…吾人ヲ感動スル者ハ何ナリヤト尋ヌレハ、則詩句ノ力ニシテ、書ノ力ニ非ルナリ、故ニ如何ニ巧ミナル書ナリトモ、不通ノ誤ヲ記セハ、人心ヲ感スル無ク、拙キ書ナリトモ、名文、名句ヲ記セハ、人心ヲ感スルヤ必セリ」(同上)。

 ⑥書は人を感動させるから美術だという説を唱える者もいるが、人を感動させるのは書そのものではなく詩や文のせいである。従って、巧みな書であっても間違えて意味の通じない書は人の心を打たないし、拙な書でも名文名句を書けば、必ず感動を招く、と述べる。小山は書に芸術性を認めない。

 第二点の「書を美術とする本質的理由の欠如」の(1)「書が美術的な<部分>をもつか」について、小山は、「書トハ如何ナル術ナルカヲ探究スルコト、・・抑々書トハ・・・言語ノ符号ヲ記スルノ術ナリ、故ニ其術タルヤ、図画ノ如ク彩色ヲ設クルニ非ス…又彫刻ノ如ク凹凸ヲ作ルニモ非ス、…其形モ亦図画、彫刻等ノ如ク、各人各自ノ才力由テ、作リ出ス者ニ非ス…之ヲ配列スル力モ亦用セサルナリ、……他人巳定ノ配列ニヨリ、古来一定ノ形ニ順匕、彩色、濃淡等ヲ施用セス、唯一色ヲ塗抹スルノ術ナリ、故ニ一色ヲ巳定ノ形ニ塗ルトノ一言、以テ書ノ定義ヲ盡スニ足ル……此色ヲ巳定ノ形ニ塗リ、筆端些少ノ趣味ヲ有スルノ術ハ、独リ書ノミニ非ス、泥工ノ壁ヲ塗リ、提燈匠ノ紋形ヲ画ク等、枚挙ニ暇アラス…此等諸術ノ美術ナラサルハ、巳ニ明ラカ」(『東洋学芸雑誌』第9号205~206頁)。

第二点の(1)書は言語の符号を記す技(術)であって、図画や彫刻のように人間の才能によって創造されるものではない。言語の配列も既定の配列に従うもので、一つの色を既定の形に塗る術にすぎない、と定義する。書が美術なら左官屋が壁を塗るのも提燈屋が提燈に紋を書くのも美術となる。つまり、書は美術の<部分>をもたない。

 第二点の(2)は「書は美術の<作用>をもつか」に関して、「書ハ他ノ美術ノ如ク独立シテ作用アル者ニ非ス必ス文句ノ指揮ニ従匕、然後始テ作用アルモノナリ、…如何ニ能書ナリトモ看者ヲシテ泣カシメ笑ハシメス故ニ人心ヲ感動シ教化ヲ助クルトノ作用ハアラサルナリ、……如何ニ能書ナリトモ人ノ精神ヲ快楽ノ別天地ニ誘匕吾ヲ忘レテ歓喜セシムル等ノコトハ為ス能ハス……如何ニ能書ナリトモ唯其文意ヲ看者ニ通スルノミ書自身ハ一ノ意味ヲモ有セス…故ニ智識ヲ開キ学術ヲ助クル等ノ作用モ亦アラサルナリ…其本分ノ作用ハ蟹行文ト同一ナレハ本邦ノ書ハ蟹行文ト異ニシテ独リ美術ノ作用アリトハ断シテ言フヘカラス」(『東洋学芸雑誌』第10号227~228頁)。

 第二点の(2)の<作用>に関しては、書は文字の指揮(規則)に従い、言語の符号として単に意味を伝達するより他のいかなる作用ももたないことを強調する。書それ自体に、見る者を泣かせたり笑わせたりする力もなければ、人の心を感動させ教化を助ける働きもない。知識も開かず学術の助けにもならない、従って西洋のヨコ文字と同じく美術の作用は無いと断定する。

 第三点の「書の奨励の悪結果」に関して、「以上ノ理由ニ由テ書ハ普通教育ノ一科トシテ勧奨スヘク美術トシテ勧奨スヘカラサルナリ……書ヲ美術トシテ勧奨スルノ目的ヲ十分達シタル時…果シテ如何ナル利益アルヤ…美術ノ名称ヲ付シテ百方勧奨スルヲ要センヤ、且夫レ万国博覧会ヲ開クニ当テ…本邦ノ書家一瞬間ニ塗抹スル所ノ文字ヲ出シテ是即我邦ノ美術ナリ同一ニ陳列スヘシト云ハハ…吃驚シテ嘲笑スヘキヤ…我ガ文字ハ汝ガ文字ト形異ナルニ因テ…特別ニ美術ナリト云ハハ彼如何ニモ至当ナリト賞賛スヘキヤ将タ無学無知ト侮弄スヘキヤ恐クハ嘲笑軽侮ヲ免レサルベシ」(同上229頁)。

 第三点の「書の奨励の悪結果」について、書を美術として奨励し、能書(文字を書く技がうまい書)が陸続と生まれたとしても、外国から歓迎されるか、輸出できるか、人知を開いて学術に寄与できるか、工芸を発達させ諸事業の振興に役立つか、と小山は反問する。書を美術として万国博覧会に出陳すれば、必ずや世界の嘲笑や軽蔑を招くから、日本の現況からは不利益となる、と小山は結論する。


 これに対して、「書ハ美術ナラスノ論ヲ読ム」で、天心は逐一反論を展開する(引用は『明治文学全集38岡倉天心集 亀井勝一郎・宮川寅雄編』292~295頁、1968年 筑摩書房)。


岡倉天心「書ハ美術ナラスノ論ヲ読ム」

 第一の点に関して、「書は言語の符号であって、意を通じれば他にその作用はなく、西洋であっても日本であっても書に異なる性質はなく、従って特別に書を美術とする理はない」とする小山の主張に対して、天心は日本の書が西洋の書と異質である根拠を提示する。書はもとより言語の符号であり、書を作るは実用技術である。しかし、日本の書は「勉めて前後の体勢を考え、各自の結構を鑑み、練磨考究して美術の域に達するもの」であって、西洋のただ意を通じればよいというものと全く異なっている。「東洋開化は西洋開化と全く異なれば、すなわち美術の如き人民の嗜好によって支配さるるものにして」、違いがあるのは当然であるという。

 また、小山が「本邦の書は、人々がこれを愛玩するに因って美術なり」とし、愛玩の通弊を主張しているが、絵画・音楽その他の美術においても愛玩の通弊は存在し、ただ書のみ責めるのは不公平であると天心は言う。さらに、書が人を感動させるのは、書が書き表す名文名句であるという主張に対して、天心は「嗚呼是何の言ぞや」と慨嘆し、詩文に感じる感情と書に感じる感情を混同してはならないと反論する。

 第二点の「書を美術とする本質的理由の欠如」の(1)「書が美術的な<部分>をもつか」という点に関して、天心は、書が「絵画・彫刻の各人の才力によって人目を娯しましめんと、色や形の工夫を凝らす術ではない」という小山の主張は、「書ハ美術ナラス」とする論拠ではなく、単に書は絵画ではない、書は彫刻ではない、と言うに過ぎない。美術の範囲は広く、絵画や彫刻ではない音楽は外物に拠って感情を起こすのではなく、もっぱら思想上の快楽を与えるが故に第一位の高い美術である。書もまた字体の変化は名状しがたく、人目を娯しませる目的において他の美術と完全に同じである。

 第二点の「書を美術とする本質的理由の欠如」の(2)「書は美術の<作用>をもつか」の点に関して、小山は、書が言語の符号として単に意味を伝達する以外のいかなる作用も持たないので、書それ自体に見る者を泣かせたり笑わせたり力もなければ、人の心を感動させ教化を助ける働きもないと主張するが、天心は、こうした作用は付随的で偶然の結果であると反論する。絵画美術の本分は画家の胸中の美術思想の表出である。それ故、画家の内面の思想を表出し、見る者にこれを会得させるのが絵の<作用>であって、善悪等の風教を助けるものではない。

 第三点の「書の勧奨の悪弊」に関して、小山の「美術の利益を工芸のそれと比べて、書では西洋に高価に輸出できず、百般の事業振興にも役立たない」と断ずる主張に、天心は慄然として声を荒げる。「嗚呼西洋開化は利欲の開化なり。利欲の開化は道徳の心を損じ、風雅の情を破り、人身をして唯一箇の射利器械たらしむ」。このような時に、書も美術であるという美術思想を広め、天地万物の美質を味わい、日用の小品にまで美術の思想を味わいさせることが肝要である。美術を金銭の得失で論じるのは、人間の品位を卑しくし美術たる根拠を失わさせるものであるので戒めなければならない、と断罪する。


「論争」考察 

 この「書ハ美術ナラス」論争は、一方的に天心の反論が論理的に筋道が立っており、天心に分があるように受け取られた。しかし、ここでも問題はそう単純ではない。両者の論がすれ違って見えるのは、まず小山の云う「美術」と天心の「美術」の語の内包が異なるからである。小山の美術は「絵画・彫刻」に限定されているのに対し、天心は「絵画・彫刻」はもとより「音楽・建築・書・日用の工芸品など」も包含している。小山の説は、フェノロサが日本の従来の「芸術・技術」の未分化な状態を脱しさせようと新たな「日本美術」を提唱したのに応じて、書が文人画のように「書画一体」と捉える習慣や愛玩・風教・独創性の無さ等に基づいて、「書ハ美術ナラス」と厳格な西洋美術の基準から批判する。それに対し天心は、同じくフェノロサの教えから明治政府の開化政策による伝統的な日本美術への圧迫を押し戻すために、書を伝統的な音楽や工芸品なども含めて「日本美術としての新たな思想」の構想から、小山に反論しているのである。

「龍池会」と「鑑画会」

 明治14年の第二回内国勧業博覧会では、書は西洋では美術に列しないが、書を貴ぶ『風土ノ慣習』のためという理由で美術の区分に組み込まれていた。しかし、フェノロサと天心は鑑画会の開催と京阪地方の古社寺調査を経て、天心は日本美術の独自な美質性を発見し、西洋文化と日本文化の違いを自覚し、この日本美術の固有性を解明するための機関の創設を考えていく。それが美術学校創設の運動となり、さらに日本美術の解明につながるアジア文明の調査の旅へと連なっていく。


Ⅲ.東京美術学校の開校への道

 「書ハ美術ナラス」論争の後、フェノロサは、日本固有の画法の再興を目的とした画家の実地指導に乗り出す。この活動の中で、フェノロサは、困窮と不遇の身にあった、狩野派の「竜虎」と称された狩野芳崖と橋本雅邦に出会う。共に現状の狩野派への不満と独創的表現への意欲を共有していた二人は、フェノロサに見いだされ、日本画の伝統に西洋絵画の写実や空間表現を取り入れた。新しい新日本画の創生を目指すフェノロサの方針は、古美術の保護と鑑賞会を主な活動としていた佐野常民の「龍池会」と対立した。この結果、同17年(1884年)に九鬼や天心、今泉雄作ら文部省組が離反して新たに「鑑画会」を発足させた(「龍池会」は宮内省との関係を深め、明治20年(1887年)に有栖川宮熾仁親王を総裁に迎えて「日本美術協会」へと改称して、純粋な伝統絵画を保存しようという方針の下に伝統画派の重鎮が集まった。鑑画会系の革新派が新派と呼ばれたのに対して、龍池会側は旧派と呼ばれた)。このフェノロサ主導の鑑画会は、伊藤博文をはじめとする政府要人にフェノロサや天心の美術教育方針に対する関心を呼び起こした。やがて、小山正太郎が以前勤めていた工部美術学校が明治16年に廃止された。


京阪地方古社寺調査と欧米視察

 翌明治17(1884)年6月、天心は文部省の命によりフェノロサとともに京阪地方古社寺調査に出張し、法隆寺では秘仏とされていた「夢殿救世観音」を調査し、「像高さ七、八尺許り、布片・経切等を以て幾重となく包まる。人気に驚きてや蛇鼠不意に現はれ見る者をして愕然たらしむ。…其の布を去れば白紙在り、…白紙の影に端厳の御像仰がる、実に一生の最快事なり」と感動を語っている(「日本美術史」『明治文学全集38 岡倉天心集 亀井勝一郎・宮川寅雄編』168頁、筑摩書房1968年)。文部省の図画調査委員となった天心は図画教育の改革に着手し、学制発布時から続く鉛筆画による洋風教育から毛筆使用の和風教育への教員養成改革を目指す意図があった。小山は明治12(1879)年東京師範学校図画教員となり洋風図画教育の先頭に立っていたが、天心やフェノロサらは小山を論破して自派に有利な図画取調掛設置、東京美術学校設置へ続く教育制度上の伝統復興運動の起点を作った。

 天心らの美術局設置の進言や美術学校設置に向けた運動は政府を動かし、明治19(1886)年、文部省は天心とフェノロサを欧米の美術行政(美術学校・美術博物館・公設美術博覧会・工芸美術の改良・日本美術の需要・欧州美術史等々)の視察に派遣した。アメリカからフランス・スイス・ドイツ・イタリア・スペイン・イギリス等を巡り、アメリカに戻って帰国した。この視察は1年間余にのぼり、この帰国を待って明治20(1887)年10月に文部省直轄学校として、東京美術学校ならびに東京音楽学校の開設が決まった。鑑画会での活動によって政府に大きな影響を与えた狩野芳崖は、明治21年畢生の名作「悲母観音」を画きあげた。この絵の観音像の衣文表現などは仏画や水墨画の描法であるが、色彩感覚や空間把握には西洋画の息吹が感じられる。芳崖は東京美術学校の教官に任命されたが、「悲母観音」を書き上げた4日後、開校を待たずに死去した。

 明治22(1889)年、第日本帝国憲法が発布された。伊藤博文・井上毅らはウィーン大学のロレンツ・フォン・シュタインの助言によって、ドイツ帝国(プロイセン)憲法がもっとも日本に適するという調査で、ドイツ帝国憲法をもとに草案した。


Ⅳ.東京美術学校の運営と天心の失脚

東京美術学校の開校

 東京美術学校は正式には明治22(1889)年に上野公園内に開校、東京音楽学校は明治23(1890)年に同じく上野公園内に開校した。美術学校の初代校長は文部省の浜尾新が就任し、天心は明治24(1891)年28歳で校長となった。音楽学校は文部省音楽取調掛長であった伊澤修二が校長となった。


東京美術学校の構成と教員

 この美術学校は絵画・彫刻・建築・および図案(デザイン)の教員養成と制作者養成を目的とし、普通科2年、専修科3年の修業とされた。表向き、日本固有の美術の振興という天心・フェノロサの主張は明示されていない。カリキュラムを見ると普通科では基礎実技に画格(画の主題や法則の基礎理論と実習)、造型(彫刻)、図案の科目、専修科で実習が模写・模造、写生、新案(図案科の場合、図案)で構成され、学年が進むにつれて新案の時数を多くして創造性開発に重点を置いている。教員は、美学・美術史にフェノロサ、実技教員として、絵画は橋本雅邦、狩野友信ら狩野派出身画家と円山派出身の川端玉章、巨勢派ゆかりの巨勢小石を選んだ。彼らの大半は多少なりとも油絵や銅版画の経験があり、進取の気風も備えていた。フェノロサが排斥した西洋画派や文人画派は採用しなかった。彫刻は高村光雲ただ一人。図案を重視しながら図案担当教員を配置していないのは人材が得られなかったためと推測される。


東京音楽学校の開校

伊澤修二

 東京音楽学校は、校長伊澤修二の方針で美術学校とは反対に西洋音楽を基礎とした。予科(修業1年)と本科(2年制師範科と3年制専修科)から構成されていた。伊澤は明治8(1875)年に文部省の師範学校教育調査のためアメリカへ留学、現地の師範学校で教員養成プログラムを履修しながら、初等音楽教育の専門家のルーサー・メーソンのもとで歌唱や音楽教育に関するレッスンを受け、音楽教育の重要性を確信した。伊澤は帰国後、文部省の音楽取調掛長となり、メーソンを日本に招聘した。伊澤とメーソンらは、日本で最初の小学生のための歌の教科書『小学唱歌集』を刊行した。この唱歌集には「君が代・蛍の光・蝶々」などの曲が入っており、近代国家の成立期に国民をいかに形成するかという視点から音楽教育を志向しており、小学校だけでなく中学校や師範学校でも歌の授業に用いられ、幅広く普及した。このことは伊澤自身が作曲した「天長節(天皇誕生日の称)」や「紀元節(紀元節は、古事記や日本書紀で日本の初代天皇とされる神武天皇の即位日をもって定めた祝日。日付は紀元前660年2月11日。1873年に定められた)」などの曲が、戦前、学校儀式などで歌われたことも関連している。伊澤は政府に音楽学校設立の建議を提出し、明治20(1887)年、音楽家・音楽教師を養成するための「東京音楽学校」の開設が決まった。

 東京音楽学校は美術学校と異なり男女共学であり、欧米から招聘した外 国人教師や留学から帰った日本人教師が中心となって学生の指導にあたり、日本人音楽家の育成、日本初の音楽ホール「奏楽堂」の建設、日本人初のオペラ公演、日本人初のフル・オーケストラの結成など、日本の音楽教育の礎となった。伊澤修二は日本の音楽教育の開拓者であるばかりでなく、明治23(1890)年40歳の時、国家教育社を創設し、忠君愛国主義の国家教育を主張、『教育勅語』の普及に努めた。明治27(1894)年、日清戦争後日本が台湾を領有した際、伊澤修二は台湾総督府民政学務部長局心得となり、統治教育の先頭に立った。明治30(1897)年、伊澤は貴族院勅選議員となり、明治32年には高等師範学校校長となった。伊澤は帝国教育会の創始者であり、帝国政府の文部行政および教育界の大立者であった。



音楽学校と美術学校

 小山正太郎らの、明治政府の日本の近代化に資する国家有用の美術教育として洋画を推進する立場から、天心の伝統を重視し新たな国民芸術の創造を目指す美術学校の方針は、絶えず非難攻撃にさらされていた。こうした小山らの洋画派の背後には、西洋音楽を主軸として西洋に伍する音楽教育に注力する伊澤らの音楽学校があった。さらにその背後に、天心らを支えた九鬼隆一(男爵、慶應義塾に学び、福沢諭吉の薫陶をうけた。その後、文部官僚となる)や浜尾新(慶應義塾に入学、文部官僚)・今泉雄作(フランス留学。パリのギメー東洋美術博物館客員、帰国後文部省学務局勤務)らの文部上級幹部から、地歩を固めつつあった開化派の森有礼文部大臣および西洋派の官僚勢力へと移行していく時代変化が存在した。帝国政府が文明開化の政策から次第に、西欧列強の一員としてアジアに勢力を広げようとする方向が見え隠れしていた(竹内好の指摘による。「岡倉天心」竹内好『日本とアジア』所収404~405頁 ちくま学芸文庫1993年)。



校長岡倉天心の美術学校規則の改正

 明治22(1889)年、第日本帝国憲法が発布され、東京美術学校も開校した。しかし、その中心にいたフェノロサが翌年、政府との契約期限が切れることにより辞任しアメリカに帰国した。政府の財政事情やその他種々の事情によるとされる。帰国後のフェノロサはボストン美術館日本美術部のキューレーターとしての仕事の他に日本文化紹介の執筆や講演を積極的に行っている。この明治23年に天心は美術学校の校長に任命された。天心は学校規則を改正し、図案に代わって美術工芸と改称し、基礎課程の「画格」「図案」の科目を削除した。絵画・彫刻の実習は「臨画」「臨模(彫刻は模刻)」「写生」「新案」によって構成し、「卒業製作」が課程に加えられた。

 この天心の美術学校規則の改正は、天心の日本美術教育の改革の構想とともに、現実を直視したものであると言えよう。帝国議会の開催に先立ち、明治23(1890)年に第三回内国勧業博覧会が催行された。「第二部美術」の区分では「第五類 版、写真及書」の中の「其三書」とされている。「書」が第二回の「書画」という枠ではなく「木版、石版、篆刻など」「写真」「書」となった。この第三回では43名・48点の出品数で第二回の半数近くに減少している。出品者には成瀬大域・西川春洞・北方心泉らがいる。褒状は北方心泉・成瀬大域他が受賞している。この第三回の「書」の審査報告では「形貌ヲ修飾スルノ病多ク其気卑俗ニ流レ、収拾ス可カラズ」、「俗字ヲ書シ、訛字(かじ,字を誤る)ヲ作ルモノ、亦頗ル多キヲ見ル、如此モノハ、皆書法ノ頽衰(たいすい、衰退)ニ因ラズンバアラズ」(柳田さやか『書の近代——その在りかをめぐる理論と制度』森話社72~78頁、121頁2023年)。



天心の「第三回内国勧業博覧会の審査報告」 

 この第三回の内国勧業博覧会の審査報告抄で、天心は第二部「美術」の第一類「絵画」について、第一期(明治初年から8、9年までの日本画破壊の時期、第二期は保存、古法の修養の時期、そして現在明治23年の時期は第三期で保存と進取(進歩)の混淆の状態と判定する。保存の弊害は旧風を守り、宗派の拘束によって絵が類似して新たな発展がないことであり、進歩の弊害はいたずらに新奇を求めたり、洋風に流れて軽噪錯雑となり品位を失っていることである。天心は、将来の注意点を六点にまとめている。①最も必要なのは自主の心、すなわち新奇を求めたり、旧来の法に従うのでなく、その中間で各自が独立の地位を保つこと。②最も注意すべきは古法を失わざること。古法は古人の妙技の姿を映している。これに基づかず自己を恣まにすることは未開に帰ることにほかならない。③精神が必要である。熱情がなければ人を感動させない。高雅の意がなければ人に絵の妙を感じさせることができない。今回の出品の多くは慣習を追い、製作が粗雑で、全力を尽くしていない。④最も注意すべきは技術である。技術は意匠(絵の主題)の対象である。古人の技術を追求練磨して、進んで各自の技術を発明すべきである。⑤特に欠点となるのは、品位が乏しいことである。現在のように変化が激しい中でも、心を高尚秀雅にして絵の真の趣が現れる。しかし、今日の画家は社会の一員たることを忘れず、同時に美術家たる本分を忘れず、社会の成り行きと共に推移し、絵の真の趣を保つべきである。⑥将来に発達すべきものは、歴史画と浮世絵である。歴史画は過去の浮世絵であり、浮世絵は現在の歴史画である。 天心は、油絵に関してもその進歩の点は意匠と技術に認め、欠点は品位と学識の乏しさに置いている。油絵の品位は未だ高尚に達していない。歴史画には古実を考究して杜撰にならないことが必要である。人物画の場合、解剖骨格の理を研究しなければならない。その他、遠近法も研究すれば一層進歩するであろう、と天心は報告している((「第三回内国勧業博覧会審査報告抄」『明治文学全集38 岡倉天心集 亀井勝一郎・宮川寅雄編』323-325頁、筑摩書房1968年)。



天心の憂い

  こうした天心の論述からは、単に伝統的な日本美術の復興を目指して声高に宣揚するという国粋主義的傾向は窺えない。ここには、現状の美術界、美術教育に対する憂いが表明されている。師のフェノロサが去って、美術学校の組織運営を託された天心にとって、体系的に日本美術教育を組織化するとともに、情勢を踏まえた現実的な運営を図らなければならなかった。その一例が、フェノロサが志向した「画格」「図案(デザイン)」科目の削除であった。「画格」はフェノロサが言う「妙想idea」の養成の科目であり、西洋における「芸術性」の基本を構成する科目である。しかし、フェノロサが『美術真説』の講演で示した日本画と油絵との優劣のように、単に妙想のあるなしで判定するにのは、あまりにも観念的で、日本の現状にはそぐわなかった。天心は広範な古美術調査と資料調査で、日本画でも西洋画でもそれぞれの歴史を持ち、独自な文明の堆積を担って現在の相貌が存在することを学んだ。そうした歴史の系統と独自な技術の伝承を踏まえて新たな美術を構想していかなければならなかった。「図案」においても、ウィーンの万国博覧会で西洋から絶賛された庭園設計や浮世絵の構図・空間構想・色彩配置等の版画技術、さらに精緻精妙な工芸品など、実用性と同時に絶妙な芸術性にあふれた技の才を体系的に養成することが必要とされていた。

 しかしながら、現状の美術界では、そのような人材は得られなかった。「彫刻」においても、仏師であった高村光雲の一身に集約された実践的な技と深い見識のみであって、西洋彫刻においてはまだ人材が育っていなかった。「書」では、造形性(美術性)と文学性(精神性)とが混在している状態で、実用性と愛玩性も未分化の状態であった。伝統的には「書画一体」とみなし、「画」と同じく「書」もまた「気韻あり雅致ある高尚なる美術」とする慣習が一般的であったが、西洋には「書」というものがなく、西洋の基準では美術という範疇にない。「書」が「美術」であると規定するためには、新たな独自な思想が必要であった。



 天心の「日本美術史」

 この明治23年から、天心はフェノロサの担当科目「美学及美術史」を引き継ぎ、「日本美術史」を講義した。天心の日本美術史講義は、日本で初めての体系的な古代から近代にわたる美術史であった。それ以前は画家の伝記集、列伝集といった形はあったが、美術を歴史として捉えるには、西洋近代の研究方法を学ぶことが必要であった。天心の「日本美術史」は最初の近代的な方法と体系を備えた美術史であった。その特徴は美術現象を因果関係において理解しようとする発展史観的方法である。美術現象を一時期の孤立した現象と捉えるのでなく、前代と後代との相伴う関係として把握する。また、美術現象は系統的に進化し、系統を離れると滅亡していくとも述べている。帝国博物館美術部長でもあった天心は、博物館編の「日本美術史」の執筆のため、明治26(1893)年6か月にわたって中国へ調査旅行を行った。日本の美術を「外国との関係」の中から明らかにするためであった。明治34(1901)年、1年弱に及ぶインド旅行に旅立ったが、中国の次はインドへという天心の系統的な探究方法の必然的推移であった。日本固有の美術、日本国民の文化を解明するためには、中国やインド、さらに朝鮮や西域までもの関連性、系統性を繋げなければ美術史にならないと天心は構想していた。「書」に関しても、こうした関連性と系統性を繋ぐ「書の歴史」が必要であった。明治27(1894)年から、天心は美術学校の「予備課程」に小杉榲邨による「書学」の講義を設けた。漢字の成り立ちや書体、および日本古代から江戸時代までの書道史などの講義であった。明治34(1901)年まで続けられた。この書道史は日本で初めての書道通史であった(柳田さやか『書の近代——その在りかをめぐる理論と制度』森話社 151-152頁2023年)。 



美術学校騒動

 明治27(1894)年、美術学校の貧弱な政府予算を増額させるため、天心は美術学校の規模を3倍に拡張する意見書を提出した。しかし、明治28(1895)年、議会の「拡張法案」は、時の文相西園寺公望の介入があったため、東京美術学校を日本美術も西洋美術も同等に拡張する内容に修正されて可決した。西洋画科の指導者はパリ留学で油絵技法と外光派の作風を習得した黒田清輝と久米桂一郎であった。西洋画科は天心の路線とは関わりなくフランス流の方針に則って指導を開始した。西洋画科の新設は学内に波紋を引き起こし、西洋彫刻科の設置を求める動きも生じた。また、帝国博物館館長となっていた九鬼隆一と博物館美術部長でもあった天心との間で博物館の運営方針を巡って確執があり、さらに九鬼夫人、初子との恋愛問題によって、天心と九鬼との不仲が新聞記事や怪文書が出回るなど、天心の統率力は急激に低下した。それによって、西園寺公望文相指揮下の文部省は天心更迭を内定し、明治31(1898)年、天心は美術学校校長を辞任した(美術学校騒動)。



引用および参照文献 前編

『東洋学芸雑誌』8・9・10号(5・6・7月)小山正太郎、同誌11・12・15号(8・9・12月)天心。 国立国会図書館サーチ(NDLサーチ)

『日本近代思想体系17美術』青木茂・酒井忠康校注 岩波書店 1989年

『明治文学全集38 岡倉天心集 亀井勝一郎・宮川寅雄編』筑摩書房1968年

『岡倉天心——芸術教育の歩み——』東京芸術大学岡倉天心展実行委員会 2007年

『岡倉天心アルバム』監修茨城大学五浦美術文化研究所 編中村愿 2000年

『日本美術史』岡倉天心 平凡社ライブラリー 平凡社 2001年

『日本近代美術論争史』中村義一 求龍堂 1981年

『岡倉天心』大岡信 朝日評伝選4 朝日新聞社 1975年

『日本とアジア』竹内好 ちくま学芸文庫 筑摩書房 1993年

『日本近代美術史論』高階秀爾 講談社文庫 1980年

『日本の近代美術』土方定一 岩波文庫 2010年

『近代日本「美学」の誕生』神林恒道 講談社学術文庫 2006年

『書の近代——その在りかをめぐる理論と制度』柳田さやか 森話社 2023年