2007年4月 1日

第4回 江戸を一望にした愛宕山


 愛宕山は、標高26メートルほどの小山だが、昔は江戸市中は勿論のこと、房総半島をも一望する名所であった。官軍による江戸城総攻撃を前に、西郷隆盛と勝海舟がここを訪れ、江戸市中が灰燼に帰すのを回避したとする逸話もあるくらいである。
 しかし、山の愛宕通り側は、青松寺付近の再開発で高層ビルが建ち並び、トンネルを抜けた桜田通り側も長谷院の跡地に高層マンションが建築中である。そのうち、ビルの陰に山容すら解らなくなってしまう時がくるのかもしれない。

 愛宕通りから、参道を行くと子供の頃に読んだ「寛永三馬術」で有名な、急な石段がある。間垣平九郎の話は史実ではないというが、86段40度の急勾配は かなり険しい。ここは男坂で、右手に109段の勾配の緩い女坂がある。港区の文化財表示板によれば、明治から大正にかけて男坂を騎馬登段した人が実際に二 名いるというからすごい。登っていくと、老婆がその横をすたすたと降りてゆく、下りは、石段の下まで見えるし、石が濡れていて滑るのにたいしたものだと思 いながら、初老の私はゼイゼイしながら登段。


社殿と愛宕神社男坂

 石段を登り切ると昼なお暗き森閑とした社殿前に出る。鳥居の前に「櫻田烈士愛宕山遺蹟碑」があり、碑表の題を楷書で東京市長大久保留次郎が書している。 碑陰記は大東文化大学教授峰間信吉撰、金子栄一書とあった。愛宕山は、万延元年(1860)三月三日朝、雪の中を「桜田門外の変」決行直前に浪士18名が 結集したところである。碑に皇紀2601年とあるから昭和16年に建てられたもののようだ。


桜田烈士愛宕山遺跡碑

 右隣にある自然石には、猩々斉が線刻した弁天、恵比寿像とともに蜀山人、朱楽菅江などの狂歌を刻した碑がある。碑陰には、願主雪廼屋富士丸など数行の名前があり、江戸の香りを醸す。


狂歌碑

 狂歌碑の斜め後ろには、高さ1メートルほどの「起倒流拳法碑」がある。神社の森が暗く、浅い彫りで読みとりづらいが、起倒流拳法の祖は(ちんげん びん)という人らしい。どこかで見た名前と思ったら、三田正山寺にある碑の主であった。明朝萬暦15年(1587)、杭州に生まれた人で、元和7年 (1622)に渡来し尾張徳川家に仕えた人である。港区教育委員会の『文化財報告書』に碑文が採録されており「東都後学源鱗文龍書並題額。安永八年...建  松橋中慶雲刻字」とあった。鱗は沢田東江の名、文龍は字である。沢田東江〔享保17年(1732)〜寛政8年(1796)〕は、江戸時代の儒学者で、書家 でもあった。「東江先生書話」など書論でも名高く、多胡碑拓本を世に広めている。



起倒流拳法碑

 たくさんの鯉が群れる池の前を右に行くと、女坂からの門がある。その手前左側に大きな碑がある。碑面に剥落があり修復の痕が痛々しく読みとりづら いが、「西南の役」で戦死した東京警視第二方面第一分署の警部、巡査の表忠碑であった。碑文は、顔真卿風の楷書で刻され、有栖川宮熾仁親王題額、鷲津毅堂 撰文、巌谷一六書。左隅に「大震災で倒壊したため、昭和五年に再建した」旨の追刻があった。

 女坂頂上右手には、小公園があり碑のようなものが二つ見えるが、防災上のためか金網が巡らされ、見ることが出来なかった。終戦直後に徹底抗戦を叫び、木 戸内大臣邸を襲い、愛宕山で自爆した12名の碑であろうか。「殉皇十二烈士女の碑」(昭和20年建)「弔魂碑」(昭和27年建)の二つがある。「桜田門外 の変」と「大東亜戦争」終戦を見えない糸が繋いでいるのであろうか。
薄闇の中の史実に思いを馳せながら石段を下りると、明るい街が広がり、高校生の一団が重い機材を携えてやってくる。写真部の課外活動であろうか、今風の風景である。



表忠碑

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