2008年2月 1日

第12回 三條公神道碑と護国寺の書碑


三條公神道碑と護国寺の書碑
松陰神社に行ったら、近くの豪徳寺を紹介するのが筋だが、神道碑を追って護国寺を訪ねた。 神道碑は、明治10年に勅令が発せられた木戸孝允をはじめとし、大久保利通、毛利敬親、大原重徳、岩倉具視、広沢真臣、島津久光、 三條實美の八基が建碑されたが、勅令から15年で建った「毛利公碑」(明治31年建)は例外で、皆大正になって建碑されている。 東京の神道碑は、前回紹介した「広沢公神道碑」のほか、鳴鶴書で有名な「大久保公神道碑」(青山霊園)、「大原公神道碑」(谷中墓地)、 「岩倉公神道碑」(鮫津・海晏寺)と、ここ護国寺にある「三條公神道碑」の五基がある。
 護国寺(文京区大塚5−40−1)は、五代将軍綱吉が生母桂昌院のために建てた幕府祈願所で、最盛時は寺領千二百石を誇った大寺院である (享保年間に、神田にあった護持院(明治期に廃寺)が焼失したため、ここに移転統合され、合わせると寺領は二千七百石にのぼったという)。 戦災で焼け野原になった東京では珍しく、元禄の佇まいを今に伝え、重文・観音堂(本堂)、大師堂、鐘楼、仁王門などの建造物や仏像が現存する。 また、本堂左手の重文・月光殿は、安土桃山時代の建造物で、大津三井寺から品川の御殿山の原邸内を経て昭和3年にここに移築された。


不老門(写真1)

 仁王門をくぐり、本堂へあがる石段の上に建つ中門(不老門。「不老」の扁額は、徳川家達の揮毫とされる=写真1)を抜けると、 本堂前の広場に出る。「三條公神道碑」(写真2・3)は、本堂の右後方に建っている。三條実美の墓のそばである。 「故内大臣正一位大勲位三條公神道碑」は、明治45年に股野琢(藍田)が勅撰し、大正10年に杉溪言長(六橋)が揮毫している。 建碑は大正14年であるから、相当長い時間を経て建てられている。銅碑に整った細線で刻まれた、当時の股野の肩書きは帝室博物館総長、 杉溪は貴族院議員。陽鋳された篆額は伏見宮貞愛親王が書している。藍田は「大原公碑」の撰も、六橋は「岩倉公碑」の書も手がけている。 杉溪言長(六橋)は、公卿山科言縄の三男として生まれ、男爵となり貴族院議員を30年以上務めた。華族の中でも文人として名高い人で、 私も新潟・寺泊の旅館で六橋を中心にそこで遊んだ文人達の書画の合作を目にしたことがある。

三条公神道碑(写真2)

碑字(写真3)

 隣にある、「感舊之碑」(写真4)は、実美が没した翌年(明治25年)に建てられたもので、四条隆謌、 東久世通禧など十名が碑陰に名を連ね文久癸亥(3年)の政変(いわゆる七卿落ち)以来の盟友の死を悼んでいる。書者の名はないが、 顔真卿風の楷書である。

感舊之碑上部(写真4)

 本堂に向かって右側にもいくつかの碑がある。「紀念碑」は、「討薩之役東京警視第四方面第四分署警部巡査」とあり、西南戦争戦死者の慰霊碑。 明治13年(1880)建で、題額の隷書は東伏見嘉彰。碑文は、中村正直の撰、書を井亀泉が刻している。
「報国六烈士碑」は、日露戦争の六烈士の顕彰碑で、明治41(1908)年に建てられた。元帥大山巌題額、陸軍中将福島安正撰文、齋藤清太郎書、 千光群玉刻。

小出翁碑(写真5)

「梔園小出翁碑」(写真5・6)は、明治42(1909)年建で、歌人小出粲の碑。行書の題額は、山縣含雪とあるるから、山縣有朋の揮毫。 高島張輔撰文を岡山高蔭(慶応2・1866〜昭和20・1945)が書している。高蔭は、恒川宕谷、巌谷一六に学んだ後、 かな書道を研究し一家をなした。小出は、高蔭の和歌の師である。

碑字(写真6)

「棋聖宗印之碑」は、昭和11年(1936)建の比較的新しい碑で、将棋の11世名人、八代目伊藤宗印(将棋、最後の家元)の顕彰碑。 総理大臣を務めた清浦奎吾が行書で題字を揮毫し、松平康国の撰文を、月出東山が書している。
 墓地には、維新の志士大橋慎(1837〜1872)の墓があり、田中光顕の題額で、巌谷一六が墓誌撰し書丹している。他に、山縣有朋、 大隈重信、田中光顕ら明治の元勲の墓とともに、松平不昧、大倉喜八郎、下田歌子などの墓がある。また三井の大番頭といわれ、 晩年は高名な茶人として知られた高橋箒庵の墓もある。箒庵は、書についての造詣も深く、大正8年の佐竹本三十六歌仙の売買の仲立ちもしている。
 帰り道にある、境内の他の碑も紹介しておこう。不老門の右側に聳える碑は、護国寺住職から長谷寺化主となった高城義海師の感恩碑。 碑題は、「義海和尚感□□」とあり下部は躑躅の植栽で見えないが感恩碑とあるのであろう。書者は、従二位勲一等子爵三浦梧楼。 西南戦争で第三旅団長を務め、韓国駐在特命全権大使の職にあった時に「閔妃事件」と深く関わったとされる人で、後に学習院長、 宮中顧問官などを務めた三浦観樹である。碑陰の銘は、「下毛鷄足寺小住正盛撰并書」とあり僧侶の書だが立派な隷書。大正十年に建てられている。 階段を下りて左手の植え込みに「民謡碑」がある。江差追分の研究を続けた青木好月を顕彰して昭和五十七年に建立された。 その奥には冨士講の建てた江戸時代からの碑が冨士を模した小山の上まで立ち並ぶ。

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