季節に映ることば
季節に映ることば

バラが咲いた  訳詩 近代詩 和歌

第11回:筒井ゆみ子

新緑が鮮やぎを増し、緑の風が薫るこの頃、花は薔薇の季節を迎えます。
このたびは薔薇を歌った訳詩、近代詩と短歌を御紹介します。

 

 

 西欧において、薔薇は親しみ深い野の花であるとともに敬虔な聖母の花でもありました。
 古くから真理や愛や美といった観念の象徴でもあったこの花は、季節の美しい景物であるだけでなく、芸術や宗教、哲学など、広い分野でそれぞれの歴史に関わり、類のない花の文化史を紡いで今日に至っています。数ある花咲く植物の中で、ひときわ特別な存在であることは間違いありません。

1 無題の詩   ウィリアム・ワーズワース

神は花もて地を飾り
人の憂ひをねぎ給ふ。
されば花より智恵を得る
術(すべ)知る人ぞ幸多き。
心に絶えず嬉しきも
忝(かたじけ)なしと思ふ人こそ。
 ※「英文学にあらはれたる花の研究」石川林四郎(大正13年)に掲載

2「野中の薔薇」 ゲーテ(近藤朔風訳)より第一連

童(わらべ)は見たり 野なかの薔薇
清らに咲ける その色愛(め)でつ
飽(あ)かずながむ
紅(くれなゐ)にほふ 野なかの薔薇


3「ばら」 ピエール・ド・ロンサール(井上究一郎訳)より抜粋

酒にばら そそがなん、
そそがなん、酒にばら。
つぎつぎに 飲みほさん、
飲むほどに 胸深き
悲しみは 消えゆかん。

美しき 春のばら、
教ふるよ、オーベール、
この時を たのしめと、
若き日の、青春の、
花の間を たのしめと。

咲くと見し、その日はや
色褪せて、散れるばら、
われらまた この齢(よはひ)
束の間に 衰へて、
人生の 春むなし。


4「ばら」 ピエール・ド・ロンサール(井上究一郎訳)より抜粋

ばらは神々の香り、
ばらは乙女のほこり
高貴なる黄金よりも
よろこびてその胸に
かざるなり、初花を。
 
※3は冒頭からのひと続き。3と4の間に四つの連がある。


5「薔薇」 ハインリヒ・ハイネ(生田春月訳)

薔薇は匂つてゐる けれども薔薇はそのことを
自分の匂つてゐることを感じてゐるのだらうか?


6「薔薇の内部」 ライナー・マリア・リルケ(富士川英郎訳)より抜粋

この憂いなく
ひらいた薔薇の
内湖(うちうみ)に映っているのは
どの空なのだろう? 見よ
どんなに薔薇が咲きこぼれ
それを散りこぼすことができないかのよう
薔薇にはほとんど自分が
支えきれないのだ その多くの花は
みちあふれ
内部の世界から
外部へとあふれでている
そして外部はますますみちみちて 圏を閉じ
ついに夏ぜんたいが 一つの部屋に
夢のなかのひとつの部屋になるのだ


7  ライナー・マリア・リルケ(神品芳夫訳)

ばらよ、おお 純粋な矛盾、
おびただしい瞼の奥で、だれの眠りでもないという
よろこび。

 オーストリアの詩人ライナー・マリア・リルケ(1875〜 1926)も、薔薇の詩人として知られた一人です。上の7に掲げた三行詩は、リルケが自分の墓碑銘として用意していた詩句と言います。

 薔薇への傾倒はとみに知られていましたが、51年の生涯について、薔薇の棘で指を刺したことが死因であった(傷がもとで急性白血病を発症した)と伝わるのはあまりにもこの詩人に似合いすぎた逸話です。
 三島由紀夫は小説「薔薇」の冒頭に、「君は薔薇に殺された詩人を知っているか。それは(中略)リルケである。」と、この死に方を語っています。

8「秘められし薔薇」 イエーツ(尾島庄太郎訳)より抜粋

遙かなる、いとどひめやかの、聖(きよ)き薔薇(しやうび)よ。
われをば被(かくま)ひたまへ、我が機々(しほじほ)の
たぐひなく好き樹(しほ)に、


9「夏のすがた」 フリードリヒ・ヘッペル(藤原定訳)より抜粋

これほどまでに生ききると すぐに死ぬ

 ※詩中で薔薇について言うもの

 日本にも古くから素朴な品種、茨(うばら・いばら)はあり、平安時代には貴族の邸宅に植えられてある薔薇・さうび(しやうび)と呼ばれる花もありました。しかし『万葉集』から始まる和歌の系譜にはあまり姿を見ません。
 
 一方、中国の詩の世界では薔薇と蓮とが夏の花の双璧です。そのため和歌よりもむしろ輸入された漢詩の中に、私たちの先祖は細々と薔薇を見続けました。薔薇を扱う和製の文学作品はまことに薄いまま近代に至りました。
 
 これだけ広く薔薇が愛好され、文学においてもまさしく花形にある今日の薔薇事情は、おそらく、明治以降に膨大な量で流入した西欧の薔薇の伝統を受容した結果です。そこには古代の素朴な伝承から、宗教、美学、哲学、神秘主義、秘密結社、また植物学ほかの自然科学にもわたり、さまざまの分野に広がる層の厚い文化史がありました。日本の文学において薔薇の世界が深化するのはこの国の西欧化の進展と軌を一にする現象でありましょう。

10「薔薇」  吉田一穂  『海の聖母』(大正15年)

ひかりにゑがく(描く) うつそみ(現身)の
あはれ そのうるはしきをはみ
とは(永遠)のねがひ(願い)に さきにほふ
つかのまのいのち はなさうび(花薔薇)

 
11散文「旅ゆく一人」 生田春月(大正15年)作中の詩

土橋かかれる細谷川に、
目もさやかなる花うばら、
その白いこと匂ふこと……


12「月と薔薇」  下田惟直『永遠の瞳:小曲集』(大正15年)

月は中空
薔薇は園

月のひかりは
遠けれど

白き薔薇は
花びらの

夜露にうつる
月かげを

深く宿して
ゐたりけり


13「月光微韻」  北原白秋『水墨集』「月光微韻」より二十二章のうちの「6」

人声の、
近づきて、
明るか、  *この表記、まちがいではありません〈註:筒井〉
月の野茨(のいばら)
 

14「薔薇」  北原白秋『からたちの花』(大正15年)

薔薇は薄紅いろ
なかほどあかい。
重ね花びら
ふんわりしてる。

薔薇は日向に
お夢を見てる。
蟻はへりから
のぞいて見てる。

薔薇の花びら
そとがは(=外側) ひかる。
なかへ、その影
うつして、寝てる。
 

15「薔薇二曲」  北原白秋『白金之独楽』(大正3年)

一 薔薇ノ木ニ
  薔薇ノ花サク

  ナニゴトノ不思議ナケレド。

二 薔薇ノ花。
  ナニゴトノ不思議ナケレド。

  照リ極マレバ木ヨリコボルル。
  光リコボルル。
  

16「青き薔薇」  高鍬侊佑『月に開く窓』(大正11年)

青空よ、噴ける泉よ。
わが夢の渝(かは)りゆく楡の樹蔭に、
仰ぎ見るは青き花。

月を浴び恋人の歌ふとき、
心飛ぶ、遠き海辺に。
蒼霧に。

夢にしも我は見る、青き薔薇摘む手の戦(をのの)きを。
かくて園に雨の降る時、
われは姿見に霧を吹き
さびしき人を偲(しの)ぶなり。

青空よ、噴ける泉よ。
わが夢に、わが恋に、
仰ぎ見る青き薔薇。
 

17散文詩「薔薇」  野口米次郎『二重国籍者の詩』(大正10年)

薔薇は詩人に云ひます、
「私の生命以上にもまた以下にも、あなたは想像をもて遊んではなりません。私の存在のエキズペンスで、あなたは自分の理想や愛恋を紡いではいけません。(中略)
私は日光と露から生れて日没時にはもう死んで仕舞ふ一の花にすぎません。(後略)

 18世紀末のオーストリアの人ノヴァーリス(1772~1801)は、29歳で夭折した詩人です。没後に未完のまま刊行された「青い花」はドイツ浪漫派の精華として知られる逸品です。夢にみた青い花を求める旅の物語であり、思索的にまた哲学的に語られるその「旅」というのは、作者自身が詩人となってゆく道程でもありました。

 タイトルにある「青い花」は実際は作中に一度も現れません。「青い花」とは詩人の憧れを象徴する実在しない花なのです。

 これに代表されるように、中世以降、西欧では薔薇は極めて象徴性の高い花になりました。これを学びこれに傾倒したわが国の近代詩も、魅力的ではあるけれど、いくぶん理屈っぽくなりがちなのはやむを得ないことかもしれません。

「青い花」のイメージを負った「青い薔薇」はやはり憧れの象徴。しかし実在も困難な、奇蹟のような存在であって、現に英語で“blue rose”といえば「存在しないもの」あるいは「不可能」を象徴的に意味します。「青い薔薇」は今現在でも、ことばも、植物そのものも、ロマン派の宝物のひとつです。

 園芸品種として、その青薔薇の代表が、下に画像を挙げました「ブルームーン」です。

 まだ大学生だった頃、世田谷の五島美術館の近くに住んでいました。今ほどオシャレでなかったあのあたりは、窓を開け放っておくと、時に街路樹からリスが飛び込んできたりする長閑な田舎の顔も残していました。

 あのころ私は遅まきながら習字を習い始め、その先生から社会勉強にと連れて行かれた後楽園ホールで生まれて初めてプロレスを観戦し、目近に初代タイガーマスクが飛び跳ねるのを見て仰天しました。リングに張ってあるロープの上にひらりと上がり、コーナーポストから次のコーナーまで、ロープの上をこともなく走って渡るのです。まるで平らな地面の上を行くように自在の動作でした。そして、飛び降りるときの速度も引力を超えて速い、ように感じられる人間離れした凄さなのでした。

 その後暫く忘れられず、ヒールのない底の薄い靴を履くと、上野毛駅前の環八通りの、ちょっと幅のある白いガードレールの上を勢いを付けて走る練習をしたりしました。ガードレールの場合、一番難しいのはまずそこにうまく上がることでした。上がってしまえば勢いで少しの間はその上を走れる。それで、まず歩道を助走を付ける意味で少し走り、ほどよいタイミングでガードレールにピュンと上がる、というのがトレーニングの主な内容でした。大学生って今も昔も変なことするものです。

 五島美術館のある傍まで、以前は東急の薔薇園があったというようなことを、上野毛の住人であった作家吉行淳之介か中井英夫の文章で読んでいた記憶がその頃にはありました(吉行淳之介は当時まだ存命で、上野毛駅の出口近くの「更級」というお蕎麦屋さんに飄然として一人で出入りするのを見かけることがありました)。田園都市線が繋ぐ狭い渓谷が続く一帯は、大量の薔薇がひっそり息づく秘密の揺籃(ゆりかご)として、似合う土地柄に思われました。

 ガードレールを走る練習に興じていた同じ頃、「あの青い薔薇 ついに完成!」というまことに瑣末というか趣味的なニュースに気がついたのも、おそらく住んでいた地域に関係があったからでしょう。それは玉川高島屋でだけ見られるというのでさっそく観に行きました。

 行ってみるとそれは「青」というより「藤紫」に近い沈んだ色でしたが、素晴らしい芳香でした。

 記憶では「ブルームーン」という名でしたが、今見る「ブルームーン」とは印象が違いました。しかも、調べてみると「ブルームーン」は1960年代にはドイツでもう誕生しています。あの時の「青い薔薇のニュース」は、もしかすると、日本で漸く咲かせた、というのだったか、あるいは品種改良の何段階目かがその時完成した、というのだったのかもしれません。

 一輪買って帰り、雑然とした机に本をかき分けて花瓶を置くと、勉強部屋が香りだけ場違いに贅沢になったことを覚えています。おおむね野暮ったい、長い学生生活でした。今もほとんど変わりませんけれど。

羽ならす蜂 あたゝかに見なさるゝ窓をうづめて咲くさうびかな  橘曙覧
                         
たまたまに窓を開けば 五月雨にぬれても咲ける薔薇の赤花  正岡子規
                         
驚きてわが身も光るばかりかな 大きなる薔薇の花照りかへる  北原白秋

午過ぎてますます紅き薔薇の花 ますます重く傾きゆくも  北原白秋

大きなる何事もなき薔薇の花 ふとのはずみにくづれけるかも  北原白秋
                         
君見ませ 折る人無みに歳を経し野茨の花のここちよげなる 服部躬治(1875~1925)「迦具土(かぐつち)」

薔薇もゆる なかにしらたまひびきして ゆらぐと覚ゆ わが歌の胸  山下登美子

さうびちる 君恋ふる人やまひして ひそかに知りぬ 死なる趣  与謝野晶子

わが君に恋のかさなる身のごとし 白き薔薇も紅きさうびも  与謝野晶子

逆(さか)しまに青き空をば抱く薔薇 ルノワアルをば仰ぎたる薔薇  与謝野晶子

恋すればうら若ければ かばかりに薔薇の香にもなみだするらむ  芥川龍之介

瓶に挿す白と紅(あか)とのばらの花 あひよりてあるに 白もよく紅もよき  木下利玄

 カタカナで「バラ」と書くと洋風に感じられますが、この花の「ばら」という呼び名は和語です。「いばら」「うばら」「のばら」などの複合語になり、地名の「いばらき(茨城・茨木)」などにある「ばら」が同じものです。ほかに漢語「薔薇」を音読みした「さうび」「しやうび」などの呼び名もあり、和歌には音節数からの制約もありますが、「さうび(そうび)」と使われる例が多く見えます。


今回の詩歌のことばの読み方、出典ほか
 ※「ばら」「バラ」「薔薇」「さうび」「しやうび」の表記はそれぞれの出典テキストのまま。
  読みを決める意味で、必要に応じて平仮名書きにした場合がある。
 ※訳詩7:「双書20世紀の詩人 リルケ詩集」小沢書店 神品芳夫 編・訳
薔薇に関する記事・文例は、以下のページでも御覧頂けます。
「みやと探す・作品に書きたい四季の言葉 第11回」 →www.shodo.co.jp/tenrai/article/arti-2007-a/arti-2007-a-11.html
参考:「みやが選ぶ小さな詩集」筒井ゆみ子編(天来書院) →www.shodo.co.jp/books/isbn-268/
薔薇の画像:鎌倉市長谷 鎌倉文学館 薔薇園 2018/5/2(撮影者 筒井茂徳)

今回のことばが掲載されている書籍
「みやが選ぶ小さな詩集」→www.shodo.co.jp/books/isbn-268/

     
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