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比田井南谷レポートレポート   Vol.24 1958年 エリーゼ・グリリの前衛書の評(ジャパン・タイムズ)

Vol.24 1958年 エリーゼ・グリリの前衛書の評(ジャパン・タイムズ)

2023年1月27日、√k  contemporary での「Hidai Nankoku」展にエリーゼ・グリリさんのご子息ピーター・グリリさんから、エリーゼのジャパン・タイムズの批評記事のコピーがメールで送られてきました。1961年の記事に関しては、前回のVol.23で発表しました。続いて最初の1958年の批評と1962年の記事を訳してみます。

THE  JAPAN  TIMES ,  Monday,  APRIL,  28,   1958.

Art, East and West — Avant-Garde Calligraphy By ERISE GRILLI

ジャパン・タイムズ 1958年 4月28日 月曜日

「 前衛書」 エリーゼ・グリリ

中村松風と香川春蘭の現代書展、 銀座松坂屋店3階。4月30日まで。

 抽象書展、有楽町駅6階そごう店にて4月29日まで。

 

 

海外で最大の関心を集めている現代日本美術の徴候の一つは、 「書」と呼ばれる最も古い東洋の芸術形式の新しい運動です。一部は偶然に、一部は実際の接触によって、縮まった地球の反対にいる芸術家グループが、この動きとしっかりと一致していることに気がつきます。彼らは反対側から始まって、自分たちが平行に同じ方向に向けて動いていることに気づき、そして現在ではほぼ一点に集合しています。接点は、以前に東洋と西洋の彫刻と油絵で起こったように、広範な抽象芸術で発生しています。接触は双方にとって喚起的であって刺激的ですが、しかし…。

こうした二つの陣営の中間点にいる公平な観察者として、私はこの友好関係の必然性を認めざるをえませんが、自分としては、この特別な形の国際化からしり込みしていると感じます。東洋からの流れは、疑いなく西洋に多くのものを与えます。たとえば、アメリカのクライン、トビー、ポロック、そしてフランスのアルトゥング、マチュー、スーラージュといった人がこの運動に熱心に参加するのを見てもわかります。 (このリストは他の国を参照することで大幅に拡張できます)。

その見返りに、東洋はあまりにも重い伝統の重荷から一時的な解放を得るかもしれません。他に何がありますか? 残るのは、混乱と貴重な遺産の明確な喪失であると私は思います。驚いたことに、私は保守主義の立場を自ら認め、混ざり合いの洪水をせき止めたいという願望を認めなければなりません。こうした 逸脱の最終点は、「書」の渦まきの「可読性」という最終端で発生します。数世紀の間、禅宗または「文人的」作家の間で、独創的な書家や風変わりな東洋の書家に対し、筆の動きの視覚的な形を通じて、より表現力を高めるために可読性を犠牲にする余地が与えられてきました。

思考や精神がリズミカルな動きや墨の色調や質感によって、より生き生きと現れる可能性がある場合、表意文字の概念の形象に関して直接に知覚される要素が、感覚に訴える要素に喜んで置き換えられました。鋭敏な「読み手」は時には文字を解読できないかもしれませんが、彼は詩的または哲学的な内容を直感的に伝えられることを感受することができました

現代の抽象芸術の解放は、今や文学的内容からのほぼ完全な分離を引き起こしました。日本の現代の書家たちは、西洋の仲間たちと同じように素材とデザインの可能性を実験することに集中しており、墨の色調、質感、変則的なリズム、「偶然の」効果、空間の関係性に夢中になっています。彼らは膨大な範囲の革新を開発し、芸術家はみな、どの展覧会でも新たな実験を行い、どの書画でも絶え間ない多様性と変化を目指して努力しています。

その結果、素晴らしく煌めく多様性が得られますが、内的なフォーカスは失われます。長年にわたって一人の芸術家の中に連続性を見つけるのは難しいだけでなく、単一の展覧会の中でさえ、書家は変化と逃走するきつね火(捕まえられない幻影)に溶け込んでいます。 多様性への努力はほとんど痛々しいほど明白です。松坂屋での二人展という小さな展覧会は、伝統がもたらす安らぎと、自分の「内面」から多様性を達成しようとする喘ぎの努力をとても鋭く明らかにします。アルファベット(文字)と文学に縛られた伝統主義者の中村松風は、内容から新しい「鍵」を得て、それぞれの異なるテーマに合わせた表意文字のバレエ(バレエのようにシーンのテーマの文字を用いて構成すること)によってそれをフォローします。偉大な女性書家である春蘭は、「意味」から跳躍した後、素晴らしい効果を発揮しますが、時折、小さな作品でも「勢いの力」のように見えることがあり、大きな屛風では間違いなくそうです。

二番目の展覧会(抽象書展)では、七人の書家の合同展の開催です。確かにここにはあらゆる範囲の墨の可能性とデザインの実験があります。人はきっと絶妙な小品と選ばれた作品の多様性を見つけるに違いありません。展覧会の展示全体に真の満足がなくても、人は満足する作品を見つけることができます。 私の古い友人の多くはここにいますが、私には彼らの顔が分かりません。彼らは書画から書画へとカメレオンのように変化します。このすべての変動に内面の不変性はありません。革新のために、彼らは時々、白(余白)の「空emptiness」という最も貴重な遺産を進んで抹消し、西洋の画家と同じく彼らの空間をギッシリと詰め込むことを厭わないのです。

これは、白い紙のもつ無限の暗示性がキャンバス上の油絵の具と交換されるときに、ほぼ不可欠になります(両方の媒体(メディウム)は一人の芸術家、比田井南谷によって用いられています)。この点で、平行線は (アインシュタイン数学が許す限り) 交差し、東洋と西洋は直接、接触しています。 ここで私は保守的な助言者へと歩みを進め、古代の詩的な内容の喪失を後悔しています。ある意味で、これは西洋の抽象主義者によって放棄されたように、自然からの再現的な表象のもつ刺激の喪失に相当します。書の抽象主義者は、不毛性を感じることなく、——-形の解放を以前の内容の力強さに向けたいと熱望することなしに、いつまで進むことができるのでしょうか。

比田井南谷は、拓本の地の上に墨による抽象を書く。  「前衛書展」 そごうデパート、有楽町

 

The Japan Times,  Friday,  January  26,  1962年 1月26日 金曜日    

Art, East and West ——- Line Quality, Soft and Hard

 

 

 「線の質、 柔と剛」  エリーゼ・グリリ

線は、極東の絵画言語の優れた担い手です。それは書道から始まり、そこからあらゆる視覚芸術形式に分岐します。この東洋の線は、考えられる最も柔軟で表現力豊かな芸術の表現形式(イディオム)であり、極めて柔らかい筆によって生み出され、活動中の芸術家の一息一息、その時の気分、またはその時の思念に最も直接的に反応します。

西洋の芸術では、線は一般的に鋭くて硬い道具—鉛筆、ペン、ビュラン(彫刻刀)、エッチイング針によって生み出されます。この道具の相違が、長い一連の芸術の相違に多少、物質主義的な説明を与えます。 地球の両側の絵画やグラフィックアートの最近の実践者は、こうした対立のいくつかを克服しようとしています。彼らがどの程度成功し、現在どの程度しっかりと一致しているかは、いま東京で開催中の2つの展覧会で評価されるでしょう。

比田井天来とその門弟による書の展覧会 日本橋高島屋店8階にて。1月28日まで。

「現代書の父」という称号は、比田井天来(1872-1939)に与えられました。確かにその通りです。彼自身の作品は厳密に伝統的で正統派に思われるでしょうが、しかし彼の影響の中で、天来の息子である比田井南谷を先駆けとする「抽象書」という表現形式につながる現代派が発展しました。また、彼自身の正統派性にもかかわらず、天来は3000年前の芸術をまったく新しい形式に駆り立てるきわめて重大な変容を予感し歓迎していたので、もし最新の展開を見たとしても、この老人は墓の中で背を向けることもないでしょう。

比田井天来は当時の日本を代表する書家の一人でしたが、自分の芸術の実践者という以上に、革新者としての活動が重要です。明治期の他の多くの芸術と同様に、書道は伝統と習慣性という自らの足枷で窒息させられる恐れがありました。天来は無謀な革命家ではなく、未知の世界へ跳躍することもありませんでした。彼は、硬直化した伝統のくびきを切り放し、およそ西暦350年から750年の間の中国の偉大な時代の書道のルーツに戻るという一種の「ルネッサンス(文芸復興)」に満足しました。

天来は単にこの芸術の壮大な模範を示したり唱道したりしただけではありません。彼は各筆法を追体験し、内なる生命の動きを明らかにしました。それは内面から理解され、現代の書の再生の基礎として理解された「古法」または「古代の方法」と呼ばれたものでした。彼は書道の教師であり唱道者でした。彼の並外れた性格と深い洞察力は、幅広い範囲の門弟を周りに集めました。何かしら、ほとんどの現在の書家は彼に大きな恩義を負っており、喜んでこのことを認めています。

それゆえ、比田井天来と同じく活動的な妻であり芸術のパートナーである小琴に捧げられた大規模な展覧会には、(伝統から前衛までの)各ステージを通覧する現代の書の作品が含まれています。ますます多くの書がコミュニケーションの担い手という実用的な役割から身を引き離し、「純粋な芸術」の方向に傾倒しました。 この変化は、具象的な芸術から完全な抽象へと向かう西洋の動きと密接に類似しています。天来自身は決してその一歩を踏み出しませんでしたが、彼はその始まりを目撃し、不同意を表明しませんでした。彼は、書が時代の生命の鼓動を共有することによってのみ生き返ることができることに同意しました。一人の芸術家として、彼はまた、「墨」とその驚くほど柔軟な東洋の筆に内在する可能性を最大限に探求することを熱望していました。

現在、書や絵画 (日本語の「かく」は両方の観念をカバーしています)は、最も明瞭な可読性と正しい形象から、ダイナミックな線と流動的な墨からなる全く抽象的なデザインにまで広がっています。この展示全体は、伝統と現代の変革の抜群の対決です。

・・オットー・エグラウ作 エッチング(銅版画)  養精堂ギャラリーにて個展。

並木通り(ケテルというドイツ料理館の隣)1月27日まで。

西ベルリンの現代の色彩銅版画家は、上述の書芸術とは対極に立っていると思われるでしょう。オットー・エグラウの線の図形の伝統は、デューラーとホルバインの偉大な版画の業績にまでさかのぼり、金属の表面を横切っていく鋭い針の道具は、黒い墨に浸した柔らかい筆とはかけ離れています。それぞれの技巧は想像しうる限り分岐しており、線質も同じく正反対ですが、しかし、本質を求める欲求の点で、二人の思考は最終的にかなり接近します。

二つの主要なテーマがこの突き針の銅版画家を夢中にさせます。(エグラウは1917年にベルリンで生まれました)。 塔、起重機、製粉機を扱う一連の科学技術のテーマでは、彼のデザインは複合的な線の網状組織を形成しています。面白いとは言えますが、注目すべきものではないでしょう。彼が針金や機械から離れ、海や岩によって引き起こされた図案や雰囲気に身を任せると、まったく異なる特質が現れます。

ここで彼は自然の状態を映し出そうとするのではなく、その内なるリズムを感じようとします。 自然の有り様は、物質の構造を調べようとすると圧倒的に複雑ですが、一方、 詩的な洞察力をもち、エネルギーの脈動を感じることができれば、素晴らしくシンプルです。エグラウは、波や、流氷や、崖の起伏の緊張関係に洞察力を働かし、シンプルな自然のエネルギーというビジョンを達成します。ある銅版画では、私たちが堤防と呼ぶ石と水との人工の接合点に埋もれた生命と力を見積り、あらゆるテクニックを発揮することを見捨て、デザインを文字通り16の短いストロークに減らして自然のエネルギーのビジョンを達成します(私はそれを数えました)。こうした削除と集中によって、西洋は東洋に出会います。なぜなら、私はここで、600年前に馬遠(Ma Yuan 1160–1225)が自然界における人間の役割を非難した際に描いた、無限の広大な水面に浮かぶ孤舟の住まいについて思いを巡らしているからです。

 

 

 

 

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