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比田井南谷レポートレポート   Vol. 18 線の芸術家たち

Vol. 18 線の芸術家たち

1964年

1964年、南谷は久しぶりに横浜の自宅でゆっくりと正月を迎えた。1959年の末から1963年にかけて南谷の2回の渡米中に、妻小葩は「天来記念前衛書展」の開催を切り盛りしていた。南谷は、小葩が多忙の中で作品制作を続けていることを心配して、小葩が創作活動に専念できる場を作るように助言した。小葩は、指導している女性たちをメンバーとして「小径会」を結成し、年1回作品発表の展覧会を開くこととなった。

南谷は、2回目の渡米の成果を1964年1月29日の「毎日新聞」の夕刊に『アメリカ人と書道』と題して寄稿した。さらに、8月18日、湯島大聖堂で、森田子龍・岡部蒼風と一緒に、大筆によるパフォーマンスを行った。大筆は長さ1m以上あって、筆先の直径は15cm、長さ50cmであった。紙は鳥の子紙で10枚の紙を貼り合わせ、縦5m、横4mの大きさにした。墨はボンドを混ぜた松煙墨、南谷はさらに障子張りの糊を混ぜた。この湯島でのパフォーマンスは8ミリフィルムに収められ、三回目の渡米の際に、欧米の芸術家たちとの交流や各地での講演の際に上映され、大きな反響と関心を引き起こした(南谷HP. English版のトップページに湯島での大筆パフォーマンスの写真を掲載している)。

9月には東京タイムズ主催の『現代書道名家三十人展』(9月8日~15日、伊勢丹新館)に選ばれ出品した。そして、9月21日~26日、個展『比田井南谷近作展』(新宿 椿近代画廊)を開催した。この展覧会には、小葩の『小径会書展』も共催した(出品者は比田井小葩、水島朗琴、及川初枝、中島郁子)。

10月1日から、ワシントンのコーコラン美術館主催の『現代日本絵画展』が開幕し、美術館では稀に見る盛況であり、ニューヨーク・タイムズ紙に米国美術界の第一人者の批評が掲載されたとの書簡が届いた。特に日本の三人(岡部蒼風・比田井南谷・森田子龍)の前衛書作品が日本芸術の新しい動きとして注目され、批評されている(10月5日、ニューヨーク・タイムズ紙。11月30日、ワシントン・ポスト紙。南谷レポートVol.6 コーコラン美術館の『現代日本絵画展』(1964)で、ニューヨーク・タイムズ紙ジョン・キャナディの記事を紹介している)。

Ⅰ.世界に衝撃を与えた線の芸術

(1)第3回渡米

1964年、11月初めに南谷は三回目の渡米をしている。当面の目的はシェーファー図案学校での講演と1965年1月のミーチュー画廊での個展開催であった。11月7日にはサンフランシスコに着き、オハンロン夫妻邸とミュートロー邸に滞在(最初の渡米の時の家)。シェーファー図案学校で講演を行った後、14日にはロスアンゼルスに向かい、サンタモニカのサム・フランシス邸に移った。サム・フランシスがちょうど東京の南画廊で個展開催のために訪日している間、南谷に自由に自宅を使って構わない、ということであった。

フランシス邸には19日まで滞在し、20日に飛行機でインディアナ州リッチモンド(Richmond)に向かった。リッチモンドのアーラム大学(Earlham College)(注1)での講演と授業およびパフォーマンスの実施のためであった。21日(土)にディナーと非公式のセッション、22日(日)午後3:30~4:30 リッチモンド・アーツクラブのための書体のデモンストレーション、8:20から書道史の講義。23日(月)午後4時から「筆・線・墨についてのディスカッション」、そして7:30から、100人ほどの聴衆の前で、正式の「講演とデモンストレーション」を実施した。



写真は64年11月のリッチモンドのアーラム大学での講義

 

その後24日オハイオ州イエロースプリングズにあるアンティオーク・カレッジ(Antioch College)(注2)に向かった。アンティオークでの講演と授業およびパフォーマンスの実施のためであった。

アンティオークでの講演終了後、ワシントン.D.C.に向かい、コーコラン美術館主催の『現代日本絵画展』を鑑賞した(この展覧会は11月29日、好評をもって閉会した)。南谷は、ワシントンからニューヨークへ赴き、翌年初頭のミーチュー画廊での3回目の個展開催の準備に没頭した。

ニューヨークでは、前年滞在したチェルシーホテル(Chelsea Hotel)に居を構えた。個展準備とともにニューヨークの芸術家を対象に、毎週水曜日に書道指導の教室を開いた。参加者には知友を得たアド・ラインハートやレイモンド・パーカー、クルト・ゾンダーボルグ、ウルファート・ウィルキらがいた。

(2)ミーチュー画廊での第3回個展

1965年1月19日~2月6日、南谷はミーチュー画廊で三回目の個展を開催した。1961年から再び、奇妙な作用をする古墨を用いて、鳥の子紙に最適な条件を発見し、夢中で大量の作品を次々と作り始めた。この個展の作品でも、大胆で力強い線と強固な構築力が傑出しており、見た者に忘れがたい強烈な印象を与える。まさに南谷の線の芸術が世界に衝撃を与えたのであった。しかも、その作品は、従来より絵画的要素が減って、ますます書的になってきたといえる。主な作品は、「64-2、64-3,64-6,64-9,64-13,64-21,64-22、64-24,64-25,64-26」などである。このうち、「64-24」は京都国立近代美術館、「64-25」は新潟県立近代美術館、「64-26」はコーネル大学ジョンソン美術館に収蔵された(南谷HP. 美術館 参照)。


作品64-13
作品64-22

個展は大きな反響を呼び、1月22日付のTIME誌「ニューヨークの芸術」欄、および29日付のTIME、New York版に、「Nankoku Hidai—Mi Chou」という個展紹介の記事が掲載された。それだけでなく、1月31日、NEW YORK TIMESの一面に、長大な紹介・批評記事が掲載された。執筆者はエリーゼ・グリリ(Elise Grilli), ジャパン・タイムズの芸術批評家であり、南谷とともに「中国書道史」の英語版を執筆していた(南谷レポートVol.2 NEW YORK TIMES に全文を紹介している)。

タイム誌やニューヨーク・タイムズの記事によって、南谷は一躍有名人となり、ホテルのフロントでもうわさが飛び交った。チェルシーホテルには、「最先端芸術のるつぼ」であるニューヨークを目指して世界各地からやって来た気鋭の芸術家たちが滞在していた。彼らの中でも「Nankoku Hidai」が注目されていった。各地の大学や芸術機関から講演依頼や展覧会招待も寄せられてきた。

個展終了後の2月11日から、南谷はウルファート・ウィルキの紹介で、ニューヨークの西にあるニュージャージー州サミット(Summit)のアートセンターで10回の書道講座を開始した。また、2月15日には近隣のニュージャージー州のフェアリー・ディキンソン大学フローラム・マディソン・キャンパス(Fairleigh Dickinson University Florham-Madison Campus)(注3)のアートギャラリーで講演と映像上映を行った。さらに、ニュージャージー州にある全米屈指の名門大学、プリンストン大学(Princeton University)(注4)でも講演した。

3月中旬にはマサチューセッツ州サウス・ヘイドリーのマウント・ホリヨーク・カレッジ(Mount Holyoke College)およびスミス・カレッジ(Smith College)(注5)、マサチューセッツ州立大学(University of Massachusetts)(注6)で講演を行った。

この間、南谷は欧州での講演旅行を準備し、オランダのクレラー・ミュラー美術館の館長、A.M. ハンマッハー(A.M.Hammacher)と連絡を取ったり、イギリスのヴィクター・パスモア(Victor Pasmore)や安部展也を介してイタリアの日本文化会館にも手紙を送った。また、ドイツのシャールシュミット=リヒター夫人とも連絡を取り合っている。さしあたって、4月から6月にわたるオランダ・イギリス・イタリアへの講演旅行の許可を日本政府外務省に要請した。

(3)線の芸術家たちとの共演

講演先や日程の確定に時間がかかり、南谷はチェルシーホテルで待機していた。ホテルには欧州の気鋭画家が滞在していた。その中で、クルト・ゾンダーボルグや1955年「前衛書」に興味をもって来日した時に知り合ったピエール・アレシンスキー、そして中国系のワラッセ・ティンらと共演して制作活動を行った。この様子は8ミリフィルムで撮影され、制作後、映写しながらその出来栄えを論じ合った。

さらに、5月1日、渡米の際に携行した大筆(湯島聖堂でのパフォーマンスに使用された筆)を披露せずに欧州へ向かうのは残念と考え、アレシンスキー、ティン、レイモンド・パーカー、ウィルキらと二か所に分かれ、大筆によるパフォーマンスを行った。この様子も8ミリフィルムで撮影され、それぞれの芸術家が才能にあふれた個性を発揮しているのがありありと見て取れる。

南谷は手紙の中で、「ところが大事件が起こった。それは、例のティン氏が最後に筆を思い切って紙にタタキつけた途端、さしもの超大筆もこっぱみじんにかけ飛んだ。彼、トテモ丈夫なものと思ったらしい。それで彼、すっかり恐縮し、どうしていいか分からない。・・・お陰で、すっかり番狂わせ。筆の修理に一日かかった。どうやら持参できるらしいけれど、全くひどい画家もあったものだ。」(小葩あて。1965年5月3日付のエア・メール)


大筆パフォーマンス アレシンスキー
大筆パフォーマンス ティン筆を壊す

Ⅱ.前衛芸術

(1)抽象表現主義(アクション・ペインティング)・アンフォルメル

20世紀の二度の世界大戦による人間性の喪失は、ヨーロッパの伝統的な価値観と芸術観を崩壊させた。また、一方でカンディンスキーやモンドリアンは、荒廃した物質世界に類似したもの一切を排除して、形態と色彩にのみ意味を与える非具象絵画(抽象絵画)を生み出した。第二次世界大戦後、アメリカやヨーロッパで主観的な自己表現、激しい感情の表現を描く絵画が主流となる。彼らは、心理の内の無意識の部分が自己を表現するのだと主張した。アメリカで「抽象表現主義(abstract expressionism)」、ヨーロッパで「アンフォルメル(art informel)」と呼ばれた世界的な抽象主義芸術運動である。抽象表現主義の代表的な作家はジャクソン・ポロック、バーネット・ニューマン、マーク・ロスコ、ウィレム・デ・クーニング、ロバート・マザウェルらである。ヨーロッパのアンフォルメルの代表的な作家はハンス・アルトゥング、ピエール・スーラージュ、ジャン・フォートリエ、ジョルジュ・マチューらである。

(2)アクション・ペインティングaction painting

行為としての芸術

アクション・ペインティングという用語はアメリカの美術評論家、ハロルド・ローゼンバーグHarold Rosenberg(注7)が1952年にはじめて使用した。ジャクソン・ポロックやウィレム・デ・クーニングといった抽象表現主義の画家たちは、キャンバスは世界を再現する窓でなく創作行為をする場であるとして「キャンバスは闘技場である」という見方をした。芸術家の実存的な格闘は、油絵具が固まって盛り上がった絵画の表面にある物質性・身体性として記録される。これに対し、ローゼンバーグは、強調の対象を「物質」から画家の格闘それ自体に変えた。画家にとって完成した絵は、絵画の創作という行為や過程のうちに存在している現実の芸術活動の、残留物であり物質的な表明にすぎない、とした。その後20年ほど、ローゼンバーグによる「物質でなく、行為としての芸術」「結果でなく過程としての芸術」という芸術の再定義は大きな影響を持ち、ハプニングやフルクサス(注8)などの芸術運動の基礎となった。画家の「アクション」とは自発的な(無意識の)行為のことで、画家は手に持った顔料をキャンバスに垂れるがままにしていた。彼らはただキャンバスの周りを踊るように動き、またはキャンバスの上に立って、無意識が命ずるままに顔料を落として、心理の内の無意識の部分が自身を表現するままにまかせていた。

All over

さらに、その画面には焦点(フォーカス)を浴びる中心の図象がなく、地(ground)と図(figure)の区別のない“all over”(均一)な平面を創作した。従来の近代ルネサンス古典期からの遠近法(透視図法perspective)は、単一の視点(私の見る目)によって見られるべき対象(図)にフォーカスをあて、三次元の奥行きや無限空間があるように錯覚させ、いわば画面を、世界を覗く「窓」とするものであった。アクション・ペインターたちは、こうしたヨーロッパ近代精神の人間中心主義を否定したのであった。「オールオーバー」ではキャンバス全体に、少数の色面が大きくバランスよく配されている。またその色面には中心や焦点がなく、「図」と「地」の区別もなく、厚みもなく平面的で、どこをとっても均質で画面を越えて色面がどこまでも続いているように見える。図と地のヒエラルキー的価値を拒絶し、画面全体を主役としたのであった。

また、ジャクソン・ポロック独自の技法とされる「ドリッピング」(キャンバスを床に広げ、刷毛やコテで空中から塗料を滴らせる)や、線を描く「ポーリング」という技法は、彼が見た大地の上に描かれるアメリカ・インディアンの砂絵の影響が見られるという。

しかし、こうした抽象表現主義(アクション・ペインティング)は、1965年当時には、すでにニューヨークでは退潮となっており、ポップアートやミニマルアートが興隆してきていた。

(3)線の芸術家たち

南谷がニューヨークのワラッセ・ティンのアトリエで、クルト・ゾンダーボルグ、ピエール・アレシンスキー、そしてティンらと共演して制作をしたのは、65年の4月下旬である。65年当時、南谷は53歳、ゾンダーボルグが42歳、アレシンスキー38歳、そしてティンが37歳であった。その20年前、4人はそれぞれ悲惨な戦争の経験を経て、故郷を離れ、新しい芸術に挑戦し、65年にニューヨークで集ったのであった。

写された8ミリフィルムを見ると、4人は楽しそうに談笑したりタバコを吸いながら、それぞれ順番に筆を取って床に置かれた大きな紙に線を引いていく。引かれた線は4人の個性を表していて一様ではない。

ゾンダーボルグ

隻腕の芸術家、クルト・ゾンダーボルグ(Kurt SONDERBORG, 1923–2008)はデンマーク生まれ。本名Kurt Rudolf Hoffmann、1951年に生地の町の名SONDERBORGを名のった。1953からグループ「Zen49」のメンバーとなり、同年にパリに行って、タシスム(Tachism)に遭遇した。彼は、旅行を続け、ロンドン、コーンウォール、ニューヨーク、アスコナ、ローマ、パリで働いた。ニューヨークでは、アクションペインティングと抽象表現主義に接触した。ゾンダーボルグがメンバーとなった、1949年にドイツ・ミュンヘンで設立された「Zen49」は、第二次世界大戦後の崩壊の中で客観的な対象世界を否定し、非具象(抽象)の新しい芸術を求めて、日本の禅思想およびその瞑想にたどり着き、実践を伴った芸術運動であった。そこから、ゾンダーボルグは、無意識的に筆を動かしてほとばしる内面を走り書きするなどを特徴とするタシスムへと移行した。ゾンダーボルグの版画作品は、カリグラフィックな版画と呼ばれ、南谷が出品した2回後の1963年のサンパウロ・ビエンナーレ展で国際賞を授与された。それらの作品は、シンプルな線と白い余白(空間)が響きあって、北欧デンマークの情景を想起させる水墨画のような趣がある。南谷のフィルムでも、左手で筆をもち、ちょんちょんと点を置き、滑らかにシンプルな線を引いている。

アレシンスキー

ピエール・アレシンスキー(Pierre Alechinsky 1927~.ベルギー生まれ)は、48年、コペンハーゲン、ブリュッセル、アムステルダムの頭文字をとって命名されたコブラ(CoBrA)という国際的な芸術家集団の結成メンバーとなった。抽象表現主義的な傾向を代表するこのグループは、激しい筆致と鮮やかな色使いで、強烈な衝撃を各方面に与えた。彼は、パリ、日本、ロンドン、アムステルダム、ニューヨークなど各地に旅した。1955年の日本滞在では、江口草玄、森田子龍、篠田桃紅の書く姿や書に満ちた日本の情景を撮影した「日本の書」という16ミリフィルムを制作した。1965年、2度目のこのニューヨーク滞在では、パリで出会って親しくなったワラッセ・ティンのアトリエに滞在し、ティンにアクリル絵具の使い方を学んだ。アクリル絵具はアレシンスキーが書から学んだ流れるような筆さばきを実践するのに適していた。南谷のこのフィルムでも、アレシンスキーは早い動きで流れるように線を引いている。ただ、その筆遣いは絵画のように筆で塗っているように見える。

ワラッセ・ティン

ワラッセ・ティン(ウォーレス・ティンWalasse Ting、丁雄泉 1928-2010. 上海うまれ)は、1946年に中国を離れ、香港、パリで生活し、カレル・アペル、アスガーイェルン、ピエール・アレシンスキーといった著名な芸術家たちと交流を持った。さらに1957年アメリカに移り、ニューヨークで活動し、抽象表現主義の影響を受けた。南谷の1965年の5月1日のビル屋上での大筆のパフォーマンスで、オレンジを転がしながら大筆を振るうパフォーマンスはハプニングとよばれる。伝統的芸術形式や時間的秩序などを無視し、偶然性を尊重し、芸術家がアクション(行為)する非再現的で一回性の強い芸術形式である。しかし、ティンのアトリエでティンが自由に思いのままに書くのは、中国唐代の西域風の女性と見事な奔馬である。その筆の線や図柄は中国の文人画を思わせる。

そして、南谷。パフォーマンスでの大筆や大字特大筆を用いて書く線は、まさに書的な線であって、遅速、曲直、潤渇、強弱等様々な線の形体が書く者の人間性を表すという、筆意に満ちている。書の3000年の歴史を踏まえて鍛錬された線である。

記憶(時間/歴史)

アレシンスキーは、この1965年ティンのアトリエで彼の新しい芸術を代表する作品「セントラル・パーク」を生み出す。セントラル・パークを真上から見たこの絵は、中心に強烈な緑やオレンジ色で非具象の形象を描き、周りにマスを作ってマンガのような小さな絵で取り囲む独自なスタイルを完成させた。彼はコブラ時代にはパウル・クレーの幼児のような絵に類似した作品を制作していた。音楽や詩にも親しんでいたクレーは絵と文字(記号)の有機的な性格を利用した。記号は観念の表象である形態である。絵を見た瞬間に自動的に意味(観念)を発する記号を引き金にして、見る者の意識に作用する。アレシンスキーは心に浮かんだものを素早く描く手段としてアクリル絵の具に出会った。彼は左手で素早く描く絵を中心にして、周りに右手を使ってその絵の記号(文字や図像)を書き込む。そのことによって、絵全体が見る者に重奏的な響きを与える。その記号はアレシンスキーの経験した世界の物語や神話などを象徴した、アレシンスキーの記憶(時間/歴史)そのものなのである。

ワラッセ・ティンもまた、中国を離れてアンフォルメル、アクション・ペインティング(抽象表現主義)の洗礼を受けた。抽象表現主義の自由なアクションに対して、描く筆の線と余白(空間)の使用は、彼の上海生まれを思い起こさせる。ティンの描く独自な世界は、彼自身が自己の内面を探究し、想起する記憶(時間/歴史)なのである。その後、ティンは非具象ではないが、比喩的形象芸術(figurative art)として中国唐代の女性や猫、鳥等の動物の絵を数多く手がけ、中国の絵画の規範とアクション・ペインティングの自発性とを融合し、墨と色彩とを調和させる独自な世界を生み出した。

南谷を含めて、4人は線の芸術家として、新しい時代に時代錯誤となり、桎梏となった惰性態のヨーロッパの伝統芸術、中国日本の伝統芸術を否定した。そして、それぞれ新たな独創的(original)な芸術を模索した。しかし、独創的(オリジナル)な芸術とは、単に奇想や新奇な工夫を凝らすことではない。自己の内面に深く沈潜して自己のorigin(起源・源泉・根源)に遡行し、オリジンを探究して、自己の現在の記憶(時間/歴史)として新たな創造を重ねていかなければならないものであろう。


ゾンダーボルグ
ゾンダーボルグ

アレシンスキー
ワラッセ・ティン

注1: アーラム大学Earlham College
1847年創立。インディアナ州リッチモンドにあるリベラルアーツカレッジ。クェーカー教のの流れを汲んでおり、平和主義、平等主義、人道主義をモットーとしている。
注2: アンティオーク・カレッジAntioch College
1852年,一般教育中心の非宗派的共学制大学として,オハイオ州イエロースプリングズに創立。私立の男女共学リベラルアーツカレッジである。
注3: フェアリー・ディキンソン大学Fairleigh Dickinson University
1942年創立。グローバルな教育を行う大学で各国からの留学生も多い。
注4: プリンストン大学Princeton University
1746年創立。アメリカで8番目に古い大学。学生の教育と最先端研究との両立を成功させている大学として評価は高い。第4代アメリカ合衆国大統領ジェームス・マディソン、35代大統領J.Fケネディを輩出。物理学・数学の分野でノーベル賞受賞者も多数いる。村上春樹は同大の客員研究員、客員講師などを歴任し、名誉博士号を授与されている。
注5: マウント・ホリヨーク・カレッジMount Holyoke College
1893年創立。およびスミス・カレッジSmith College 1875年創立。名門女子大学7校の総称であるセヴン・シスターズの一員。7校すべてがリベラル・アーツ・カレッジである。スミス・カレッジは全米屈指の最難関名門私立校で、アメリカ最大の女子大学。
注6: マサチューセッツ州立大学University of Massachusetts
1947年創立。ボストンに本部を置く。アマースト校を含む5つの大学からなる州立大学システムの一つ。
注7: ハロルド・ローゼンバーグHarold Rosenberg 1906-1978.
アメリカの文芸・美術批評家。1952年画期的論文「アメリカのアクション・ペインターたち」を発表し、戦後におけるアメリカ美術の重要性を最初に主張した。アクション・ペインティングの理論的支柱とみなされ、代表的論文集『新しいものの伝統』(1960年)の第1部2「アメリカのアクション・ペインターたち」は、数多く引照されている。
注8: フルクサスFluxus(ラテン語で「流れる、変化する、下剤をかける」という意味) リトアニア出身のデザイナー、建築家のジョージ・マチューナスが提唱した前衛芸術運動。美術、音楽、詩、舞踏など広い芸術ジャンルにまたがる。フルクサスは自らの「イベント」を「ハプニング」と区別していた。「イベント」は、スコア(総譜)に基づき、特定の行為を明確に行うもので、日常的な物を芸術の舞台に持ち込み、その垣根を壊し、日常に芸術的な物を持ち込ませるという反芸術的な意図を持っていた。ナム・ジュン・パイクや日本のオノ・ヨーコ、武満徹 、一柳慧 らが参加した。
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