南谷オフィシャル・サイト(HP)のトップページを飾る写真は、1979年6月23日オランダのミデルブルフMiddelburg(ミッテルバーグ)で行われた南谷の大筆によるパフォーマンスの写真である。この時、南谷は67歳。オランダへの旅は、1964年にニューヨークから欧州へと足を延ばした際に、オランダ国立民族学博物館で講演を行った時以来であった。
1979年6月21日(木)~7月8日(日)まで、オランダ南西部ゼーランド州の州都ミデルブルフで「新しい音楽の祭」Festival Nieuwe Muziek が開かれた。会場はミデルブルフ市のフリースハルにある市庁舎および市庁舎前のマルクト広場で行われた。このフェスティバルは1976年に始まった、音楽を通じて若者と世界を結ぶ芸術活動「若者と音楽」Jeugd en Muziekの祭典の国際版であった。
ミデルブルフは、9世紀ヴァイキングの侵略に対するワルヘラン島の防御地点で、地名は「中央の城砦」の意味に由来している。12世紀から重要な商業の中心地として栄え、イギリスとフランドルの間の交易に大きな役割を果たした。17世紀に入るとオランダ東インド会社の重要な貿易拠点となった商業都市である。江戸時代、鎖国政策をとる徳川幕府と長崎の出島で交易を重ねた、世界に開かれた国際都市である。1978年には長崎市と姉妹都市となり、それを機縁として、1979年、「日本」をテーマとした「新しい音楽の祭」が開催された。
18日間の「新しい音楽の祭」のスケジュールには、オランダの古楽器演奏や室内オーケストラ等を交えながら、日本からは、クラシック音楽の領域で、一柳 慧(現代音楽作曲家・ピアノ)、平山美智子(注1)(ソプラノ歌手)、石井眞木(注2)(指揮者)など、ジャズでは、富樫雅彦カルテット(注3)、山下洋輔トリオ(坂田 明サックス+小山彰太ドラム+山下洋輔ピアノ)など、また、雅楽アンサンブルや、沢井一恵(注4)(箏曲家・十七絃箏演奏者)、 沢井忠夫(声・箏演奏・三弦)、石垣征山(注5)(尺八演奏家)などの演奏が行われた。映画では、黒澤 明・寺山修司・久里洋二(アニメ)・大島 渚・勅使河原宏・アラン・レネ(「二十四時間の情事 (「ヒロシマ、モナムール」)などが上映された。さらに、デモンストレーションとして、剣道・柔道・合気道と空手も実演された。
南谷は、23日(土)のミセス・ガーデニア・ベレンデンM.H.M.F.Gardeniers-Berendsen(注6)による公式オープニングの後、ミデルブルフ市庁舎の広間で、多くの若者の前で大筆による「書のパフォーマンス」と「東洋の書道についての講演」を行った。広間のコーナーには、南谷の作品が展示された。
南谷が、この「新しい音楽の祭」に参加したのは、親交があった音楽家の石井眞木から協力要請があったからである。また、20年前のクレラー・ミュラー国立美術館主催『日本美術の伝統と革新展』(1959年)の招待作家の一人であったことも影響しているであろう。さらに加えて、南谷がこのフェスティバルに積極的に参加した理由には、「書と音楽」が芸術として共通性を持つという考えに関わっていることも想定できる。
南谷は、少年の頃からクラシック音楽に強く関心を抱き、音楽家の内田元に師事してヴァイオリンの演奏を学び、才能が認められた。将来は演奏家としてオーケストラの一員に目されていたが、父天来の意向で断念せざるを得なかった。南谷は書の道に専心して、書の芸術性を探求した。その際、南谷に大きな示唆や影響を与えていたのは音楽であった。
南谷は、書の芸術性は線表現であって、文字の意味性や文学的要素とは無関係であると主張した。この主張は南谷の音楽に関する理解が根拠の一つとなっている。音楽美論のエドゥアルト・ハンスリック(1825-1904)の説では、音楽はそれ自体として独立しており、その美の構築にあたっては、外部から挿入される内容を一切必要としない。美は音の芸術的結合の中にのみ存在し、音は聴き手の精神に自由な形象をもって顕現する。音楽の美が表現するのは旋律、和声そしてリズムといった音素材で構築され、それ自体を目的とする自立的な美である。
書もまた、筆線の質(動き・勢い)と墨の濃淡(強弱・太い細い・潤沢とかすれ)、全体の構成(配置と余白)と結合(リズム・ハーモニー・コントラスト)、用材の効果(紙・下地)といった「書の素材」から成る純粋な形象である。そして、書の本質は鍛錬された線の表現である。鍛錬とは単なる技術的習熟という意味ではなく、書の歴史の流れの中で自覚的に線表現が鍛錬されてきたという意味である。したがって、書の鍛錬の基礎は書の歴史の中にある。書道史の古典から線表現の鍛錬を学ぶことが基礎となる。これが臨書である。古典名品を臨書することで筆法や筆の動き、筆の勢い、書の構成などを習得する。
南谷は父、比田井天来の学書としての臨書の意義を引き継いでいる。天来は臨書第一期を「絶対的手本本位の時代」と呼び、楷書・行書・草書の古典を「一点一画ゆるがせにしないように、自己を捨て丁寧に臨書する」。臨書第二期は「自己本位の時代」で、第一期で手に入れた用筆法を自分の主義として、「王羲之でも王献之でもことごとく自己の主義に合せしむるつもりで臨書する」。手本に合わせるのでなく、第一期で習得した用筆法を自己の個性として貫徹させる。そして、臨書第三期「手本と自己との融和時代」に到る。第一期のように手本本位でもなく、第二期の自己本位でもない。自己と手本とが融合して、無理のない自然な筆意(線の表現)に到達する。いわば、弁証法の「正・反・合」に似た臨書論を提唱している。
南谷にとって、臨書とは書道史の古典から線表現の鍛錬を学ぶことである。その際、自分にとって書きやすいもの、好きなものだけを臨書するのでなく、書きにくいもの、嫌なものこそ臨書して習練しなければならない。習慣性、筆癖を拭わなければならないからである。この臨書から自己の性情(人間性)が自得できるようになる。そして、臨書を続けることによって、無理な自己主張や我意が洗われ、自然で自由な書が現れる。そして南谷は「書は演奏である」と主張した。書という芸術は、≪演奏≫しなければ十分に理解できない。
音楽では、楽器を演奏するという実際行動を通さなければ、作品が現れない。作曲家が詳細に楽譜を書き、演奏家に対し、きめ細かな指示を譜面に残しても、実際に演奏しなければ、音楽は現れない。楽譜を読んで頭の中で音が鳴り響こうと、それは聴衆が聞く音楽ではない。したがって、演奏家はまず楽器の演奏技術に習熟しなければならない。その演奏技術の習熟には、演奏が容易なフレーズだけでなく、演奏しにくいフレーズも練習しなければならない。さらに、クラシック音楽であれば、楽音や三要素(旋律・和声・リズム)に習熟し、音楽史の古典楽曲の対位法やソナタ形式などの理解が不可欠となる。そこから、音楽を表現するための鍛錬は古典楽曲を演奏しなければできない。演奏家は、まず作曲家が指示した通りの譜面に忠実に演奏できるようにしなければならない。しかし、譜面は音を奏でない。演奏は演奏家の「作品の解釈」が当然、ともなってくる。古典に忠実に演奏するといっても、作曲家バッハの演奏がいま、耳に出来るわけではない。またバッハの指示に忠実に従うといっても、チェンバロや古典楽器で常に演奏するのは馬鹿げている。「解釈」には、演奏家の個性、創造性がつきまとう。しかし、個性といっても自己流で奇異奔放であっては、演奏とはならない。くり返し練習する中で、自然で自由に音楽が表現できるようになる。
臨書もまた、古典名品を正確に観察し、その線表現を再現しなければならない。安易に書きやすい自己流に流れてはいけない。抵抗のあるものこそ、くり返し習練しなければ、自由な書きぶりができない。会得した筆法を自己のものとして、自己本位に、自己の個性として、古典に立ち向かう。それは「作品の解釈」を免れないのと同様である。こうした経過を経て、自然で自由な書が出現する。
音楽と書との最大の共通性は、過ぎ去る時間性にある。音楽の演奏は、音の響きが動いていく時間経過の中にある。書もまた、書いていく筆の動きの過ぎ去る時間経過である。ともに、一過性の時間芸術なのである。くり返しくり返し演奏する。くり返しくり返し書く。この反復は、単に時間の巻き戻しではない。常に、無から有を生み出す活動なのである。音楽の想起、書の追体験は、過去の反復ではない。音の響きや筆線の動きの現在の時間経過なのである。
「日本」をテーマとしたこのフェスティバルは、単にミデルブルフと長崎市の姉妹都市を祝うための「祭」というものだけではない。また、オランダ人にとって異質で魅惑的な「エキゾティック・ジャパン」の紹介というものだけではない。東洋に根ざした日本の音楽や書芸術文化が、いま現在、どのような相貌を示しているか、ということに触れる場の提示であった。雅楽や筝・尺八の演奏が伝統の根幹を踏まえながら、どのような「新たな音楽芸術」を目指しているか。また、12音階や無調音楽、電子音楽、フリージャズといった西洋の最先端音楽に、どのように伝統的な日本の音の響きがこだましているか。そして、3500年の長い書芸術の歴史の根幹に、線表現を見出した南谷が、どのように、グローバルな「新たな線の芸術」を提示しているか。
この祭は、17世紀以来、異質な歴史状況の中で交流を重ねた日本とオランダが、現代の若者たちに「新しい芸術」の未来を託すフェスティバルであったといえよう。
6月21日(木) | 16:30 | ミデルブルフ市文化長官、G.B.シェーンメイカー氏によるオープニング・セレモニー 紹介 書家 比田井南谷のパフォーマンス 作曲家 鈴木昭男(1941- サウンド・アートの先駆者) 作曲家 小杉武久(武満 徹、一柳 慧とCollective musicを結成) |
21:00 | ウォルター・ファン・ハウウWalter van Hauwe(ブロックフレーテ・リコーダー奏者) 高橋美智子(マリンバ奏者) |
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22:30 | ジャズ 富樫雅彦(ジャズパーカッション) | |
23:30 | 小杉武久とその友人たち | |
22日(金) | クラヴサン(チェンバロ、ハープシコード)演奏とジャズ | |
23日(土) | 13:30 | 剣道 |
14:30 | ミセス・ガーデニア・ベレンデンM.H.M.F.Gardeniers-Berendsenによる公式オープニング | |
15:00 | 平山美智子(ソプラノ歌手)のアンサンブル | |
16:15 | 比田井南谷のパフォーマンス | |
17:00 | 比田井南谷 「東洋の書道の講演」 | |
20:30 | 平山美智子のアンサンブル | |
21:30 | 永田邦子(ヴァイオリ二スト) ピアノと打楽器演奏 |
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24:00 | ジャズ 富樫雅彦カルテット | |
24日(日) | 20:30 | 沢井一恵(箏曲家。十七絃箏演奏者) 沢井忠夫(声・箏演奏・三弦) 石垣征山(尺八演奏家) その他、チェロ演奏、フルートとピアノ演奏 |
25日(月) | 20:30 | 映画 黒澤 明「どですかでん」(1970) |
23:00 | 映画 松本俊夫「修羅」(1971) | |
26日(火) | 20:30 | 映画 寺山修司「田園に死す」(1974) フィルム 寺山修司「トマトケチャップ皇帝」(1971) |
27日(水) | 20:30 | 映画 寺山修司「書を捨てよ町に出よう」(1971) |
23:00 | 映画 黒澤 明「七人の侍」(1954) | |
28日(木) | 11:00~ 15:00 |
久里洋二のアニメ |
14:00~ 16:00 |
篠原 眞(電子音楽の作曲家) | |
20:30 | 雅楽アンサンブル | |
22:30 | ジャズ | |
29日(金) | フィルムとジャズ、ドラム、チェロ演奏など | |
30日(土) | 13:30 | 柔道 |
15:00 | ピアノと打楽器 | |
17:00 | 丹波 明(日本の現代音楽作曲家)の講義 | |
22:30 | 平山美智子のアンサンブル | |
23:30 | 一柳 慧ピアノ+畑麻子バイオリン | |
7月1日(日) | 20:30 | 雅楽アンサンブル |
22:00 | 弦楽四重奏 | |
23:00~ | バイオリン、コントラバス演奏 | |
2日(月) | 20:30 | 映画 大島 渚「絞死刑」(1968) |
23:00 | 映画 勅使河原宏「砂の女」(1964) | |
3日(火) | 20:30 | 映画 大島 渚「新宿泥棒日記」(1969) |
23:00 | 映画 大島 渚「愛のコリーダ」(「官能の帝国」1976) | |
4日(水) | 20:30 | 映画 大島 渚 「儀式」(1971) |
23:00 | 映画 Alain Resnais「二十四時間の情事 (「ヒロシマ、モナムール」)」(1959) | |
5日(木) | 12:45 | 野田 燎 サキソフォン演奏 |
20:30 | ラジオ室内オーケストラ演奏 | |
21:30 | ジャズ演奏 | |
6日(金) | 20:30 | ラジオ室内オーケストラ演奏 |
22:30 | 野田 燎サキソフォン+吉原すみれ打楽器+一柳 慧ピアノ | |
7日(土) | 13:30 | 合気道と空手 |
15:00 | ジャズ演奏 | |
17:00 | 一柳 慧の講演 | |
20:30 | 平山美智子とダンスとのコラボレーション | |
22:00 | 石井眞木の指揮によるフェスティバル・アンサンブル | |
23:30 | 山口 修 ギター演奏 | |
8日(日) | 20:30 | ピアノ演奏 |
22:00 | 吉原すみれ 打楽器演奏 | |
23:30 | 閉会宣言 ジャズ 山下洋輔トリオ(坂田 明サックス+小山彰太 ドラム+山下洋輔ピアノ) |