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比田井南谷作品
常に新たな世界を拓き続けた南谷の軌跡

比田井南谷 作品

1. 心線以前

「現代書の父」と呼ばれる比田井天来と、かな書道の第一人者、比田井小琴の次男として誕生した南谷。少年時代は、この非凡な父母の理解有る開放主義のもとでのびのびと育ちました。中学校に入ると音楽に興味を持つようになりますが、書道にも興味を覚え始め、父の蔵書を持ちだしては古典の臨書をするようになります。東京高等工芸学校時代の作品には、繊細な感性をうかがうことができます。

2. 電のヴァリエーションの時代

敗戦のとき、南谷は長野県山間部の小村に疎開していました。これからの日本はどうなるのか。書はこのままでいいのだろうか。悶々とする中、「行き詰まったら古に還れ」という父のことばを思い出し、夢中で展開させた結果が最初の前衛書「電のヴァリエーション」でした。その後の一連の作品です。

3. マチエールの探求

1955年頃から、南谷の作品に驚くべき変化があらわれます。そして用材の面からいえば、キャンバスに油絵の具を用いるようになるのです。マチエールへの憑かれたような探求が彼をとらえ、同時に彼の多作時代が訪れます。ボードに油絵の具を塗り、タイヤの切れ端で引っ掻いたり、古い拓本の上に書いたり、彼の知識と能力を駆使して、必然性から偶然性にわたる効果への実験をこころみます。

4. 立体的な線

1958年から59年にかけて、彼は一つの技巧的発見に到達します。それは黒の油絵の具にAベンジンを混ぜる方法です。これによると墨のような粘りが少ないので、大作でも筆がよくのび、線と線の重なりもあらわせて、かなり忠実に墨線の動きを定着させることができるのです。この方法によって、第五回・サンパウロ・ビエンナーレ展出品作を作ります。

5. 特別な墨

南谷が理想的な墨を求めて古墨を集め始めたのは1957年のことでした。第一回渡米の少し前、高い代価を払って中国の風変わりな大きい墨を手に入れます。彼はこの墨に満足し、画宣紙を使っていくつかの作品を作りました。ある日、この墨に他の墨を磨りまぜたところ、突然墨が分離を始めます。試みに筆につけて書いてみると、書いた時の筆の動きが、そのままの状態で乾燥することがわかったのです。それまで夢想していた理想の墨との出会いに、彼は狂喜し、多くの作品が作られました。

6. 簡素な響き

1960年から61年の作品には、ふたたび変化があらわれます。それまでのダイナミズムは姿をかくし、筆線は極度にセーブされて、空間が大きく紙面を支配しています。「たくましい紙面に飽きた。と同時に空間への思念が強くなった」と語っていますが、減筆された細い線を用いて、しかも筆意がいかに空間を支配し、古典のある種の傑作に見られるような。強い造形性を創造することができるかという試みでもありました。

さらに、一年半にわたる滞米中と、帰国後の約半年間におこった著しい心境の変化によって、彼の「陰」の面が強くなり、外面的なことより、むしろ内面的なものが強調されるようになったと考えられます。

7. 強い線

細い線の時代がしばらく続いた後、完全に行き詰まってしまった彼は、横画と点の単純な構成に戻ります。その後、再び例の奇妙な作用をする古墨に還り、しかも鳥の子紙に最適な条件を発見して心手ともに安心を得た彼は、1961年から1964年にかけて、大量の作品を次々と作り始めます。それらの特徴は大胆で力強い線と強固な構築力であり、それは後までずっと続きます。また彼は作品の中に、伝統的な書に見られる筆順のようなものを取り入れようとしていることがうかがえます。つまりこれらの作品は、従来のものより絵画的要素が減って、ますます書的になってきたといえるかもしれません。

彼はこれらの作品をもって、1963年、および64年から65年(渡欧して帰国)の二回渡米し、それぞれニューヨークで個展を開き、1965年にはニューヨーク・タイムズに半ページにわたる大きな評論が出たりして、成功をおさめました。

8. 自由な叙情性

破竹の勢いの創作活動も、彼が経営する製版工場の技術改善のため、一時中断します。1967年、ようやく事業が回復し、個展を開きます。持ち帰った洋画材料を使って、堅牢で耐水性のある作品を作り、パーティーで一つの作品をテーブル代わりに使い、飲み物などで汚れた作品をクレンザーで拭いて見せたこともありました。

作品はさらに変化を見せます。いたずらな力みがなく、やすらかでしかも瀟洒な風姿です。中国の「居延漢簡」からヒントを得た、人の顔のような作品はユーモラスで、南谷の人柄を彷彿とさせます。また、小さな点と線で開放的な空間を構成した作品など、書や絵画の枠組みにとらわれない、自由な創作態度がうかがえます。

9. 文字作品

「文字を書かない書」を実践した南谷ですが、臨書は別です。特に好んだ王羲之や顔真卿、鄭道昭などのほか、広い範囲の臨書を残しています。ここでご紹介するのは、天来が存命中に書いた屏風(1937年)や、知人の展覧会に招かれて出品した作品です。また、一字による小品も書きましたが、「想」「無」などは一般的ですが、「止」「痛」「淫」など、文字の選びかたは意表をつくものでした。

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