何期須傳
北川博邦
北川博邦

草書字形の古體と新體

本文は『國學院大學若木書法會誌』二十号より許可を得て転載したものです。原本を尊重し旧活字を使用しており、また一部旧仮名遣いとなっている部分がございます。

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 草書の字形に古と新との差異があることは、かなりく認識されていたが、おおむね唐末五代の騷亂騒乱を界として、唐までと宋以後とで、大きく異なってきたと考えられていたようである。たしかにそのような例は少なくはないが、はそれよりずっと以前のある特定の時期に、そのことは起こっていたのである。以下そのことについて、示しながら述べることにしよう。

 


 

 先づ見易い例として、上・水の二字をげよう。

 上字の草は、上二下一に作るのが通例であるが、はこの形は新なのである。上字の筆順は、右短横、下長横とするのが通例であり、これからは上二下一の形は出てこない。これが、右短横、下長横の筆順となり、これより上二下一の形となり、下の草書の上一下二の形に對應対応させたのである。

上1
上2

 水字は澄堂帖の羲之の書に新が見られるが、これは疑うべき者である。その後唐初に至るまで、諸家みな水に作っている。新の初見は孫過庭千字文の墨妙軒本。以下素に見られるだけで、意外に少ない。孫過庭景福殿賦の水の草は他に例を見ない特異な形に作っている。水字の草書の新は、永字の草の初を省去して作られた者であろう。

水1
水2
水3

 水字のついでに泉字も出しておこう。古は白の下は水に作るのである。

泉

 


 

 初の者に草書の形をえさせるために草訣歌という者が作られた。その中に「右刀寸彎(右の刀寸は彎にす)」という句がある。右旁の刀(刂)と寸とは、くるっとまわしてをうつというのである。これがまさに新なのである。

 

 先ず「刂」から見ることにしよう。

刑1
刑2

刑字、賀知章草書孝素自叙帖は古・新のを用いている。

 

列と別とをげる。

列
別
利
制
則1
則

 利・制・則の三字を示した。梁の蕭確の則字は古と新とのが見られるが、淳化閣帖所收の蕭確の此の帖には、他に孝の新(後出)も用いられているので、後人の作であるとじてよかろう。

 


 

封
射
対
対2
樹

 寸にう字として、封・射・・樹を挙げた。対の王羲之東書堂帖所收の帖は疑うべし。樹の新があることにより、智永中本千字文は後人の摹仿になる者であろう。

 


  

好

  好字の新はかなり異な形をしている。好異尚奇の過ぎたる者というべきだろう。

 


 

 次には老及び老頭にう字を見てみよう。

老1
老2
考
孝1
孝2

 老・考・孝の三字。考は孫過庭書譜、孝は智永千字文谷氏本の形を草書古の規準とすべきであろう。孝字の蕭確は新であり、前出の則の新と共に、この時代にはあるはずのない字形であるため、淳化閣帖所收のこの蕭確の帖は後人の作としてよい。

教1
教

字の左旁は本來は孝ではないが、楷書では孝に作るので、ここについでに出しておく。

 


 

交

 交字は、右肩にを加えた新がある。他の字の場合でも、新は、このようによけいなを加えることが多くある。唐太宗風書、孫過庭千字文墨妙軒本、素千金帖の新は原字とは全く異なる字形となっており、なぜこのような字形になったのかわからない。

 

 

 以上はその一斑をげただけであり、これだけでもおおよそのことは理解できるであろうが、さらに德・存・術・宮・於・武・雨・琴・楚、さらにその他も看せられたい。

 


 

 草書の古と新とは何であるか。・南朝以來唐初に至る草書の通例の字形を古といい、唐初のある時期から現われたそれまでとは異なる字形を新という。

 新の現われた時期はいつであるか。古の行草書の書者とその書年時を特定できる者は極めて少ない。唐初に限っていえば、唐太宗の泉銘、祠銘、高宗の李勣碑、武則天の昇仙太子碑などえられるのみである。その中の太宗・高宗の諸碑には新は全く見られない。武則天の昇仙太子碑には新がいくつか見られる。よって新の出現は、高宗の後、武則天の少し前の頃と見てよいであろう。

 

 古と新とを分けることによって何がわかるか。

 

一、より唐初に至る行草書蹟の中、新を用いた者は後人の作、または託であると疑うべきである。

 

二、承の筆者の否を判定することができる。例えば、唐太宗風書、李琳絶交書、賀知章草書孝、孫過庭景福殿賦、草書千字文等は、それぞれその人ではないと定してよい。孫過庭は唐初よりやや後れる人であるが、唯一信ずべき眞筆である書譜には、ほとんど新は用いていない。

 

三、素の作とされる者はかなり多く、また新を頻用しているが、各作ごとに新の用いられ方、つまりその字種と使用頻度により、幾種かに類別されよう。さすれば、どれが素の眞作であるか、ある程度判定することができよう。

 

 「章草」という者が書の一つとして立てられている。世「章草」の書蹟の中には、新に作る字が少なからず用いられている。「章草」は今草より古い書である。それによって私の草書の古の說は成り立たないと反論する者がいるかもしれない。しかし、「章草」なる者は、書の一つとして成立し得るであろうか。南朝の書論には「章草」の語がいくつか出てくるが、「章草」の書蹟は張芝の秋涼平善帖、王羲之の豹奴帖、瓘の頓州帖等寥々たるものしかない。淳化閣帖所收の皇象、索、王之等の書蹟は、宋人によりほとんど帖であると判定されている。「章草」を書の一として大きく取上げたのは、唐の張瓘の書に始まる。この頃より好事の者によって皇・索の名に託した蹟が次々と作られたのであろう。松井如流氏は「章草とは法帖用に作られた書ではなかったろうか」と言われたそうだが、私はこの說に左袒する。となれば「章草」に新がしばしば出てくるのは、少しも怪しむに足りない。

 皇象の急就章は世の「章草」の法帖の中で、もっとも章草らしい者である。皇象の書である確は全くなく、託であることは疑いない。その來も全く不明であり、明の宋克の補した本が松江で刻せられて初めて世に知られるようになったが、宋の徐鉉に臨本があるので、唐末頃にはそれなりに知られていたであろう。今「章草」の典型を知らんと欲すれば、これをいて他に求むべきものはないが、全篇章草ので書いているわけではなく、行書さらに中には楷書と見まがうような字も少なくない。しかしこの帖にはほとんど新は見られない。そのようなわけで、「章草」は書としては未完成の者であったが、その風趣を喜んで仿う者があり、種々の帖を作ることにより、「章草」という書を創作したのであった。

 


初出:『若木書法』20(國學院大學若木書法會、令和3年2月)