何期須傳
北川博邦
北川博邦

西川寧氏と柴錬「眠狂四郎」

水道橋の楠林南陽堂が昨年暮れにとうとう店を閉めてしまった。

なんともさびしいことである。私は六十年ほど前からこの店に通い、先代の主人からは、色々とよくしてもらったものである。

 

ある時目録に、文政年間の巻菱湖・大窪詩仏の跋のある書譜の刻本が出た。早速駆けつけたところ、「それはもう注文が入っています」という。そんなもの欲しがるのはどこの誰かと思って問うたら、「西川先生です」と。私が菱湖関係のものをしきりに漁っていたことを知っていたので、「いいでしょう。あなたに廻しましょう」という。「西川さんの方は?」と言ったら、「あれはこちらの勘違いでしたと言っておきます」というわけで、私の手に入ることになった。

 

それから5〜6年後、西川さんにお目にかかった折にこの話をしたら、ちゃんとそのことを覚えており、気色ばんで言うには、「それはけしからん。私がもう少し若かったら、腕づくでも取返すのだが」と。その老いてなお血気盛んなること此くの如きであったには、いささか驚かされた。それでも、このような些細な和刻本にも注意を払っていたとはさすがであると思った。

 

この書譜は、停雲館帖の書譜の後半の真蹟の部分のみを刻している。刻者は米川文涛、この人は江戸時代の法帖の刻者としては一、二というべき能手であり、その精能は浅野梅堂の賞賛する所である。なお江戸時代に覆刻された書譜はすべて四種、明治に一種あるが、それらについては今は舎く。

 

その折にいろいろとお話をうかがったが、その一つに、「この間柴田錬三郎の眠狂四郎を読んでいたら、私が昔彼に話したことを使っていました」という。私も柴錬が好きで(シバリョウはキライだ)、眠狂四郎はすべて読んでいた。そこですかさず、「それは漢雑事秘辛にある山羊だか羊だかの眼玉の話でしょう」と言うと、びっくりしたような顔をして、「あなたはそんなものまで読んでいるのですか」と言われた。そこでこちらもケロッとした顔で、「ハイ、香艶叢書くらいは、一通り眼を通しました」と言ったら、いよいよ呆れ返ったという顔をされた。なあに、呆れ返ることはないのさ。西川さんだって若い時にそのようなものを読んでいたことは間違いないのだから、ここはアイコさ。

 

西川さんがまだ四十前の頃だと思うが、泰東書道院の雑誌「書道」の編輯主幹をしていたことがあった。その時に職がなくてブラブラしていた柴田錬三郎を拾い上げて「書道」雑誌の編輯をさせていたことがあった。そして暇な時には、色々とバカ話もしたであろう。そのバカ話の中にこのような下ネタもあったのである。西川さんが柴錬を読んでいたなんてことも、またこんな話も、門下の人も殆ど知らないであろうから、ちょっと書きとめておくことにした。

 

今年は私も八十。八十といえば正に末期高齢者である。とうとうこんなラチもない昔話をする年に成り果ててしまったのである。まあ、それでも興味のある人は「眠狂四郎」を一通り読んでみなされ。