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比田井南谷レポートレポート   Vol. 21 南谷のお気に入り(Favorite Things)

Vol. 21 南谷のお気に入り(Favorite Things)

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1972年に妻小葩を亡くした後、南谷の食卓には子どもたちやその友人たちが集って、賑やかだった。食卓での話題は、南谷の欧米での苦労話や出会った芸術家たちとのエピソードなどを皮切りに、皆が食事やお酒の好き嫌いなどを勢い込んで、我先にと声を張り上げて話すのが通例であった。食事も終わって落ち着いてくると話題は書道や美術や音楽に移っていく。ほとんど文学や映画などの話題は出なかった。

ある時、好きな小説や映画の話題になったとき、珍しく南谷が口を開いた。南谷の思い出の中に、心に残った小説として挙げたのは、グリルパルツエルの『維納の辻音楽師』であった。そして映画としては、カール・テオドア・ドライヤーの『吸血鬼』の名前を挙げた。現在では双方の名前を知る者も少ないと思われるが、南谷の心をどのように魅えたのだろうか。


『ウイーンの辻音楽師』福田宏年改訳 
(岩波文庫1979年)
『ヴァンパイア』(淀川長治監修IVC Best Selection DVD )

1.『維納の辻音楽師』

フランツ・グリルパルツァー(Franz Grillparzer,1791~1872)はオーストリアのビーダーマイヤー期(注1 Biedermeier)の劇詩人で、『先祖の女』(1817年)『ザッフォー』(1818年)らの古典的悲劇で名声を得た。『維納の辻音楽師』(「ウイーンの辻音楽師」Der arme Spielmann 1847年)は、原題を「哀れな音楽師」といい、彼のロマン主義からリアリズムへ移行する時期の代表的な小説である。

作者(語り手)が、ウィーンのブリギッタ祭で偶然出会った譜面台を前にした辻芸人のヴァイオリン弾きの老人の半生を描く。身なりはみすぼらしくヴァイオリンも決して上手とは言えないが、上品で学識のありそうな老人。生真面目で繊細な感性を持ちながらも、現実的な処世の術に乏しく人生を生き抜くには、あまりにも無力な人間の心情を語り手の目を通して淡々と描く。 

老人は、宮中顧問官の息子として生まれるが、要領が悪いため、父親に疎んじられて孤独に育った。役所で書記の勤めをしながら、隣の雑貨屋の娘バルバラが口ずさむ歌に合わせてヴァイオリンを奏でるのを楽しみに過ごしていた。上手ではないが、偉大な作曲家たちの本格的な音楽に対する熱意と敬意に満ちて、独学でヴァイオリンの練習を毎日欠かさなかった。彼はバルバラの歌を正確に弾くために、思い切って彼女に楽譜にしてもらうことを頼みに行った。几帳面で音楽の尊敬に満ちた彼には、自己流でいい加減に演奏することはできなかった。バルバラに口をきくのは初めてであった。彼女は呆れたが、嫌とは言わず、数日後に楽譜ができていた。 しかしある日、父親が急逝し、世間知らずの彼は、父親の秘書だった男に嘘の事務所設立を持ちかけられ遺産の大半を騙し取られてしまう。雑貨屋の娘バルバラは、人を疑うことのない彼にもっと現実に目を向けるようにと、強く叱りつけた。

娘はやがて親の言いつけで他所に嫁ぎ、残された男はバルバラの幸福を願いながら、辻に立ってヴァイオリンを弾く生活となっていく。客たちに蔑まれながらも、ヴァイオリンを弾いている時は幸せを感じていた。その後、ウィーン郊外は鉄砲水による洪水に見舞われた。「私(語り手)」は老人が気になってその住居を訪れたが、老人は洪水の日に水に潜って住民の子供達を助けた時、ひいた風邪が元で亡くなった後であった。「私」が老人のヴァイオリンを譲り受けようと申し出た時、肉屋の内儀さん(バルバラ)が「このヴァイオリンは老音楽師のものだ」と激しく拒絶した。内儀さんの顔には「涙がはらはらと両頬をあふれ落ちていた」。

(注1)19世紀前半のドイツやオーストリアを中心に、身近で日常的なモノに目を向けようとして生まれた市民文化の形態の総称。1815年のウィーン会議から、1848年、ウィーンとベルリンで三月革命が起こるまでの30年余、つかの間の安らぎの日々〈ビーダーマイヤー時代〉。戦争と革命、ロマン主義とリアリズムにはさまれた、つつましやかな市民文化の諸相を表現した。

2.『吸血鬼』(ヴァンパイア)

カール・テオドア・ドライヤー(Carl Theodor Dreyer,1889~1968)はデンマークの映画監督。1928年に『裁かるるジャンヌ』を発表して注目された。1932年には自身初のトーキーとなった『吸血鬼』をフランスとドイツで製作。その後は『怒りの日』(1943年)、『奇跡』(1955年)、『ゲアトルーズ』(1964年)とほぼ10年に1作品のペースでの製作を余儀なくされた。しかし、『奇跡』はヴェネツィア国際映画祭金獅子賞とゴールデングローブ賞外国映画賞を受賞。『ゲアトルーズ』もヴェネツィア国際映画祭で国際映画批評家連盟賞を受賞するなど、作品は国際的に高く評価された。 生涯で14本の長編映画を監督し、いずれの作品も神秘性とリアリズムを併せ持つとされる。

『吸血鬼』(ヴァンパイア)Vampyr (1932年)

アラン・グレイという青年が、フランスのクールタンピエールという村の宿屋に来た。夜中にアランが横になっていると、一人の老人が部屋に入ってくる。男は「死後に開封すること」と記した包みを置いて出ていく。その男の影を追うように、アランは宿を抜け出し、一軒の城館にたどりつく。その館で先ほどの老人が銃で撃たれて殺されるのを目撃する。

館には娘が二人いて、長女レオーネは重い病気で修道女が看護していた。アランが遺言通りに包みを開くと、吸血鬼を記した書物が現れた。アランが今いる村は、25年前に死刑に科せられた女吸血鬼の悪魔マルグリット・ショパンに呪われた村であった。医者も吸血鬼の手下であるということが書かれてあった。レオーネは夢遊病者のように外へ出て行き、吸血鬼に喉元に噛みつかれ血を吸われてしまう。村の医者は、彼女に輸血するためとして、アランから限度いっぱいまで血を抜く。

血を抜かれて朦朧としたアランは、下の娘ジゼルがいないことに気付いて、捜索に行く。途中、ベンチに倒れたアランは、幽体離脱して幽霊のようにさまよい、医者の家に監禁された娘を発見したが、鍵が開かず、家の中にある柩に入り込んだ。彼は目を見開いたまま死者になり、女吸血鬼が柩を覗き込んだり、運ばれる柩の中から城館や世界を見ている。やがて柩がベンチにさしかかると、アランは目覚め、葬列も消える。

館の従僕は夜明け前に吸血鬼を殺そうと、大きな石棺の墓のところに赴く。目覚めたアランもまた合流し、棺の中の女吸血鬼マルグリット・ショパンの心臓に鉄の杭を打つ。アランがハンマーで杭を思い切り打つと、女吸血鬼は骸骨になっていく。  吸血鬼を滅ぼしたので、長女レオーネは回復する。アランは下の娘ジゼルを救い出す。吸血鬼の手下の医者は、製粉所の中で徐々に挽かれていく粉に埋もれて死んでいく。アランと娘ジゼルは小舟に乗って逃れていった。

ドライヤーの最初のトーキー映画のこの作品は、会話でストーリーを展開するのでなく、吸血鬼について記された書物が全体のストーリーを紡いでいる。原作としては『吸血鬼カーミラ』 Carmilla (1872)で有名なレ・ファニュ(Joseph Sheridan Le Fanu,1814-1873)の作品とされる。しかし、ストーリーというより、ドライヤーのクローズアップ(顔と目のアップで恐怖や不安を表す)や映像の光と影の効果的な使用、全体が霧にかすみ、靄のかかったようなシーン、特にアランが幽体離脱してジゼルを探しに行き、棺の中で世界を見るシーンは、この映画が今日まで記憶され賞賛されてきた理由となっている。ドライヤーはこの特殊効果を生み出すのに、カメラのレンズの前に上質なガーゼのフィルターをかけて登場人物や大小道具をぼやけさせ、観客を夢の中にいるような気分にさせたという。

『吸血鬼』はドライヤーの唯一の表現主義映画とされるが、世界的に影響を与えた表現主義映画としては、早く1919年のドイツのロベルト・ウィーネ監督の『カリガリ博士』Das Kabinett des Dr. Caligari が嚆矢であって、夢遊病や精神異常のプロット、柱・ドア・壁・屋根などの平衡感覚が狂った歪んだセット、自然の光を一切使用せず、照明による影の効果を使用した光と影の強いコントラストなど、キュビスムの影響が見て取れる幻想的でグロテスクな様式性が特徴である。

吸血鬼映画としては、1922年のF.W.ムルナウ監督の『吸血鬼ノスフェラトゥ』Nosferatuが最初で、有名なブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』(Dracula 1897)を原作としていたが、映像化権が取れずドラキュラ名ではなくスロバキア語の「疫病をもたらすもの」というノスフェラトゥにしたという(ブラム・ストーカーのドラキュラは、1931年ハリウッドのユニヴァーサルがベラ・ルゴシ主演で『魔人ドラキュラ』として映画化した)。

ドライヤーの『吸血鬼』は1932年の製作でハリウッドよりも遅いが、ドイツ表現主義の『カリガリ博士』から大きな影響を受けて、ドライヤー自身のそれまでの濃密な心理を描く「室内劇」から、外的な世界を歪め変形し、奇怪な様式化・抽象化によって精神性を描くものであった。そしてこの後ドライヤーはもはや外的世界を変形させることなく外的世界に精神性(超越性)をもたらす「超越的スタイル」を模索することになる(注2)。

(注2) ドライヤー監督の14本の映画の変遷を小津安二郎、ロベール・ブレッソン、と並べて批評した、自身映画監督であるポール・シュレイダー著『聖なる映画』(1981年 訳山本喜久男 フィルムアート社)による。

3.南谷のお気に入り

『維納の辻音楽師』(1847年)の初訳は、1934年に岩波文庫(石川錬次訳)で出版された。1934年は、南谷は22歳であって、東京高等工芸学校印刷工芸科を卒業し、参謀本部陸地測量部に勤務し始めた年であった。

『吸血鬼』Vampyr (1932年)の日本公開は1932年の11月で、南谷20歳高等工芸学校の3年生であった。どちらも多感な青年期の南谷の心を動かした作品であった。


南谷のヴァイオリン
高等工芸学校時代のデザイン

(1)『維納の辻音楽師』は、中学時代にヴァイオリン奏者を目指していた南谷にとって切実な身につまされる物語であったろう。内省的で人付き合いの苦手な南谷には、生真面目で要領が悪く、処世の術に無力な主人公の老音楽師の姿が、自分に重なったのかもしれない。老音楽師がお祭などの辻で奏でるヴァイオリン曲は、見物客や民衆が歓迎するワルツ曲ではなく敬愛するバッハやモーツアルトの本格的な古典曲である。毎日毎日練習しても、それでも上手に演奏するにはまだまだ未熟で、大衆には耳障りな訳の分からない音楽として拒絶される。しかし、老音楽師にとっては街頭であれ辻の片隅であれ、偉大な音楽家の古典音楽を弾き奏でることこそが喜びなのであった。南谷にとって、書の古典の深奥に触れるため日々臨書を重ねる自分をそこに投影できたのかもしれない。

(2)『吸血鬼』は、デザインを学ぶ南谷にとって、刺激的な未知のイメージとの出会いであった。惰性的な鬱屈した日常から解放され、誰にも理解されずとも自己の独自の芸術世界の挑戦への大いなるエールとなったに相違ない。自然主義の習慣的で日常的な世界に安逸に満足するのでなく、世界の外形の背後に、揺るぎのない普遍的な本質が存在するはずである、という確信であったろう。
 『吸血鬼』の技法(明暗法、誇張された身振り、非写実的な装置、自由奔放な幻想シーン)はドイツ表現主義の特色であって、アラン・グレイは内面の感情を無理やり外に表現しようとする室内劇の主人公ではない。彼の感情はすでに外面化されている。それは彼自身の姿、暗い階段、アーチ状の戸口、棺の上にあらわに提示されている。第1次世界大戦後の伝統的価値の崩壊と社会の流動化によって、日常性がすでに不安と恐怖に覆われているこの現実世界、その背後に揺るぎのない精神的なものを表そうとするのである。ドライヤーは、この映画の意図をヴィルヘルム・ヴォリンガーの『抽象と感情移入』(1908年)を借りて言う。自作の“表現主義”は、“抽象”つまり空間の不安定な状態を幾何学的形式に変えること、と定義し、「抽象というものによって自分の媒体をとり囲んでいる自然主義の囲いから外に出て行ける。それは映画を単なる視覚的なものだけでなく、精神的なものにする。」(注3)
 南谷は天来、小琴のもとで書道の伝統にとり囲まれて育った。旧制中学(府立第六中、現、都立新宿高校)の3,4年のころから代々木書学院に入り浸って古法帖等の臨書を熱心に行っていた。高等工芸学校ではデザインや印刷・製本の技術を学びながら将来を模索していた。伝統的書道にどっぷりつかりながらも、父天来の書の姿勢を学び、窮屈で惰性的な書の変革を志向していた。その多感な時期に、この映画に出会い、奇っ怪でありながら現実を変革しようとする表現に、強く心を動かされたのではないだろうか。

(注3)ポール・シュレイダー著『聖なる映画』(1981年 訳山本喜久男 フィルムアート社)189ページ
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