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比田井南谷レポートレポート   Vol. 17 ニューヨーク ニューヨーク 2

Vol. 17 ニューヨーク ニューヨーク 2

ニューヨーク ニューヨーク
個展

1963年3月に、ミーチュウ画廊から多くの市民が南谷の新作を見たがっているとの書簡が届き、南谷はますます再渡米の意志を強めていった。

1963年9月下旬、南谷は意を決し、ミーチュウ画廊での2回目の個展のため、ニューヨークへ飛び立った。サン・フランシスコを経由して、ニューヨークへは9月25日に到着。マンハッタンのチェルシー地区、7番街と8番街の間、西23丁目222番のチェルシーホテル(Chelsea Hotel)に滞在した。チェルシーホテルは有名な芸術家や作家、ミュージシャンが滞在した伝説的なホテルであった(注1)。


SUNDAY NEWS 1963年4月21日 チェルシーホテル(Chelsea Hotel)の紹介
 左の写真はホテル入口 中の写真はホテルの外観 右の写真は凝った造りのブロンズの階段

南谷は10月2日~26日のミーチュウ画廊での個展に向けて、準備に没頭し、当地の知人たちに連絡も取っていない。ジャパン・ソサエティ協会長オーバートン氏と井上氏とだけに到着と個展開催の挨拶をしている。

 

ミーチュウ画廊での2回目の個展は高評価を得た。直前の抒情的な作風から一転して、再度、奇妙な作用をする「不思議な墨」を用いて、大胆で力強い線と強固な構築力を備えた自信に満ちた作品である。1961年から伝統的な書に見られる筆順のようなものが取り入れられている。筆順はあっても文字ではない。文字を書かない書の精髄そのものの追及といえるであろう。

作品は、「61-18、61-25、61-26、63-2-1、63-4,63-8、63-10,63-14-3、63-19」などである。このうち、「63-14-3」はMoMAが購入、「63-10」は京都近代美術館、「63-19」はイエール大学が購入、その他、個人が購入した作品もある(南谷HPの美術館 参照)。


作品61-25
作品63-8

エリーゼ・グリリの仲介を経て、11月6日~11月28日オーストラリア巡回「現代日本の書」(メルボルン・オーストラリア近代美術館、パース・キャンベラ・シドニーなど8都市巡回)にも出品し、南谷の作品は海外でも先進的な芸術創造として受容され、評価されていった。

講演

南谷の再渡米のもう一つの目的は、欧米人に東洋独自の芸術たる書道の正しい理解を深めることであった。

二度の世界大戦を経て、西洋では伝統的な文化の価値が崩壊し不安と虚無が蔓延した。人々は心のよりどころを求めて、異質な東洋の宗教思想に魅了されて、欧米では禅がブームとなった。主観-客観の対立を超えた(あるいは対立以前の)純粋経験に基づく思想は、対立と分裂に陥る二元論的思考の袋小路を打開するものとして、シュールレアリスムの自動書記や、画家の描く行為のみが確実な芸術創造である(アクション・ペインティング)といった思潮と、たやすく結びついた。東洋の書道も、そのような禅ブームに乗って、もてはやされた一面がある。筆に墨をつけ、無意識に筆を振り回して墨を飛ばす。無心になって筆が動き、書が書かれる。私が書を書くのでなく、私が筆と一体になって、筆そのものが書を書くことによって素晴らしい書が生まれてくる。そうした無自覚な墨痕が私の存在を表す。こうした禅ブームによって搔き立てられた書の捉え方がいかに書を誤解させているか。南谷は怒りを潜めて正そうとする。東洋の書は3000年の歴史を持つ。書の正しい理解には確実な書道史の知識が求められる。南谷は書道の歴史の英文をつづり、欧米人にも分かりやすく、正確な書の歴史と鑑賞の仕方の知識を与えようと努めたのである。

南谷は個展終了後、ジャパン・ソサエティの紹介や先方からの依頼で、ニューヨーク周辺の大学機関等で書道史の講演を行っている。

最初は、10月末、ニュージャージー州のニューブランズウィックにある州立大学のラトガース大学(Rutgers University)の附属カレッジの芸術科で行った(注2)。午後3時からの講演で、書道史を滔々と語ったが途中で夕食の鐘(午後5時)が鳴り、大学の教授が残念そうに「食事時間に遅れると学生たちが夕食を食べはぐれる」と南谷に告げたので中止した。次からは、2時間の講演で収めるには、中国書道史は唐代まで、日本の書道と併せてスライドも約30枚にカットする、という苦い教訓を得た。

2回目の講演は11月3日、ペンシルベニア州ベスへレムのリーハイ大学(Lehigh University)(注3)で夕食後の午後8時から行った。聴衆は教員や学生だけでなく、全市民に放送で呼びかけたので美術愛好家も多く集まった。講演は、ミーチュウ画廊のオーヤングと南谷が登壇し、聴衆との質疑応答から始まった。突拍子もない質問や書についての誤った先入観が披歴された後、渡米前に南谷が撮りためていた書家(上田桑鳩・手島右卿・桑原翠邦・西川寧・熊谷恒子等)の書いている8ミリフィルム(天来書院発行のDVD『書・二十世紀の巨匠たち』に掲載)やスライドを使って、中国と日本の正確な書道史を説明した。講演は2時間で終了したが、熱心な聴衆は残って深夜まで質問を重ねた。3日から5日までの講演は大成功で、美術学科主任教授のフランシス・クヮーク(Francis Quirk)からの感謝の手紙を受け取った。

3回目は11月15日、ニューヨーク市立大学ブルックリン校(Brooklyn College of The City University of New York)(注4)の芸術科の教室で行った。画学生100人余りに囲まれて、芸術を目指す若者たちの熱心な質問に、南谷は講演原稿を離れて打ち解けて語り合った。南谷にとっても忘れ難いひとときであった。抽象画家として名声のある芸術科主任教授のアド・ラインハートは、感謝の手紙に、「ブルックリン大学でのあなたの講演は大成功でした。あなたのプログラムはこの大学で、過去十数年以上の間で最も刺激的な出来事でした。学生たちは今後長い間、これについて語り合うことでしょう」と絶賛した(南谷レポートVol.8 1963年11月22日(金)に紹介している)。

4回目、翌日の午後(11月16日)ニューヨーク市マンハッタンのコロンビア大学(Columbia University in the City of New York) (注5)のケントホールで講演した。中国・日本学部の教員と学生対象であった。彼らは明・清の書画に関して知識は潤沢であったが、漢から唐の古典期の書に関してはほとんど空白であった。また書法についても日本で研究された古典的な用筆法や芸術としての覚醒に関しては全く紹介されていなかった。南谷は書が東洋文化の基調のひとつであり、人々の生活に根ざしたものであることを強調した。これまでの映像の他に、「国際文化会館」で行った「西洋人対象の書道教室」の記録映画も上映した。これを見た日本文学研究家のドナルド・キーン(Donald Lawrence Keene)教授は、閉会の辞で、西欧人が素晴らしい書の作品を書くことができるのを知って感銘を受けたと語った。

次の講演の準備のため、チェルシーホテルに宿泊していた11月22日(日本時間23日)、第35代アメリカ合衆国大統領、ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ(John Fitzgerald Kennedy)がテキサス州ダラスで狙撃され死亡した。全米に衝撃が走り、混乱と悲しみに包まれた。南谷は数日間ラジオにかじりついて、事件の詳細を知ることに務めた。狙撃犯とされた男はダラス警察署の通路で市民に射殺された。ケネディの葬式によって、予定されていたジャパン・ソサエティ主催の南谷の講演が1週間延期され、12月1日となった(南谷レポートVol.8 1963年11月22日(金)に南谷の動向を紹介している)。

大学での講演は、12月5日ワシントンD.Cメリーランド州のメリーランド大学(University of Maryland 1856年創立)(注6)の研究所、そして12月中旬にニューヨーク州ウエストチェスター郡のサラ・ローレンス大学(Sarah Lawrence College 講演当時は女子大)(注7)で行った。そして、1963年末に、日本に帰国した。

今回の渡米中に、南谷は、西ドイツのシャールシュミット・リヒターからの欧州ドイツの個展への招待、友人の安部展也(注8)によるイタリアへの招待、フランスのタピエとの親交、さらにイギリスの老大家の画家ヴィクター・パスモア(Victor Pasmore)(注9)からの紹介でイギリスでの個展等、アメリカからヨーロッパへとその活動の舞台を拡大していく手掛かりを得ている。


リーハイ大学での講演 教室の時計は午後8時20分を指している。

注1 チェルシーホテル(Chelsea Hotel):
 創立は1883年。作家や芸術家の長期滞在者向けとして知られていた。マーク・トウェイン、オー・ヘンリー、ディラン・トマス、トム・ウルフ、アーサー・ミラーなど。60年代以降でも、A.C.クラーク、ボブ・ディラン、ジャニス・ジョプリンなどが滞在し、創昨活動を行った。2011年に他の事業者に買い取られ、閉鎖。改装後、現在一般ホテルとして営業している。1966年にはニューヨーク市歴史建造物に、1977年にはアメリカ合衆国国家歴史登録財に登録された。
注2 ラトガース大学(Rutgers University):
 ラトガース大学はアメリカ独立以前の1766年の創立で、全米で8番目に古い歴史をもつ名門大学である。明治政府の顧問であったプロテスタント宣教師フルベッキ(Guido Herman Fridolin Verbeck)の斡旋によって、多くの日本人(後に政府要人となった)がラトガース大学に留学しており、日本とは関係の深い大学である。
注3 リーハイ大学(Lehigh University):
 創立は1865年。専門分野における高い技術と幅広い一般教養を兼ね備えた人材を育成することを掲げて創立。
注4 ニューヨーク市立大学ブルックリン校(Brooklyn College of The City University of New York):
 1930年創立。ニューヨーク市立大学システムの一つとして創立される。有名教員としてアレン・ギンズバーグ(Irwin Allen Ginsberg, 1926 – 1997)は、アメリカの詩人、活動家。ジャック・ケルアックとともにビート文学の代表者のひとり。アブラハム・ハロルド・マズロー(Abraham Harold Maslow, 1908-1970)アメリカ合衆国の心理学者。マズローの人格理論は、通称「自己実現理論(欲求段階説)」と呼ばれる。
注5 コロンビア大学(Columbia University in the City of New York):
 イギリス植民地時代(1754年)に英国国王ジョージ2世の勅許によりキングスカレッジとして創立され、全米で5番目に古い。かつてはLaw Schoolの校舎として使用されていたKent Hall。Law Schoolの移転に伴い、1962年にEast Asian Libraryも含む、East Asian Studies関係の学部などが場所を譲り受けた。コロンビア大学の日本文学・文化研究者として、ドナルド・キーンは名誉教授。
注6 メリーランド大学(University of Maryland):
 農業大学(Maryland Agricultural College 1856年-1916年) として1856年創立。州立大学Maryland State College (1916年-1920年)
注7 サラ・ローレンス大学(Sarah Lawrence College):
 1926年に女子大学として設立され、1966年からは男女共学になっている。人文科学、舞台芸術、執筆の分野で有名。有名教員としてマーサ・グレアム(モダンダンスの開拓者)、スーザン・ソンタグ(作家・批評家)、マルグリット・ユルスナール(フランスの小説家、『東方綺譚』、『ハドリアヌス帝の回想』など)、ジョーゼフ・キャンベル(神話学者、『千の顔をもつ英雄』、『神話の力』など)。
注8 阿部展也(あべ・のぶや):
 1913-1971。瀧口修造との詩画集『妖精の距離』(1937)により若くして一躍注目を集めた。戦後は、シュールレアリスムからアンフォルメル、幾何学的抽象へと変転を遂げ、サン・パウロ・ビエンナーレをはじめ数々の国際展へ出品した。晩年は10年近くをイタリアで過ごした。
注9 ヴィクター・パスモア(Victor Pasmore):
 1908-1998。英国の画家。キュビスムの影響を受け、1948年頃から抽象絵画を描いた。’51年頃から、彩色した木でレリーフ、立体作品などを製作し、英国の代表的な抽象美術家となった。’60年にベネチア・ビエンナーレ展のイギリス代表となった。
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