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比田井南谷レポートレポート   Vol.14 アンとディック・オハンロン(Ann &Dick O’Hanlon)

Vol.14 アンとディック・オハンロン(Ann &Dick O’Hanlon)

1977(昭和52)年12月中旬から、比田井南谷は9回目の渡米をしている。バークレーのカリフォルニア大学東亜図書館所蔵の約1000種の古碑帖拓本(旧三井文庫所蔵)の調査のためであった。同行したのは、長男の比田井健(ホテル・オークラ勤務)と長女の和子(初めての海外旅行)で、サン・フランシスコに長期滞在することになった。


古碑帖拓本(旧三井文庫所蔵)の調査 1978年1/9~1/27 書き込みは南谷

サン・フランシスコ湾の北、ゴールデン・ゲートを渡ってマウント・タマルパイス州立公園(Mount Tamalpais State Park)から見下ろす地域がミルヴァレー(Mill Valley)である。そのミルヴァレーで一番人気のあるミュアウッズ国定公園(Muir Woods National Monument)の近くに、リチャード(ディック)とアン・オハンロン(Richard and Ann O’Hanlon)の住居があった。南谷たちはミルヴァレーのオハンロン夫妻を訪ねた。熱い歓迎を受けて、和子は1週間ほどオハンロン宅に滞在した。


南谷、和子、アン・オハンロン              Ann &Dick O’Hanlon

オハンロン夫妻との出会い

南谷とオハンロン夫妻の出会いは、1959(昭和34)年の初めと思われる。同年の『第5回サン・パウロ・ビエンナーレ展』に南谷は森田子龍とともに選ばれた。この1959年には、東京での個展2回、オーストラリアのメルボルンでの個展、オランダのクレラー・ミュラー国立美術館主催『日本美術の伝統と革新展』の4人展で白隠・棟方志功・篠田桃紅と並んで比田井南谷が選ばれるなど、前衛書家として注目を集めていた。来日していたオハンロン夫妻が、南谷に書法のレッスンを受けたのも、この1959年と思われる。南谷は、革新的な芸術活動の中心であったアメリカで、線芸術としての書の普遍性を検証するため、渡米の機会を探していた。オハンロン夫妻は、サン・フランシスコのルドルフ・シェーファー図案学校を紹介し、1959年11月正式に図案学校から招聘を受け、南谷は初めて渡米をした。

ルドルフ・シェーファー図案学校での講演、サン・フランシスコでの個展、さらにニューヨークへ移動し、1961(昭和36)年、1月4日から1月28日まで、ニューヨークのミーチュウ画廊で、「比田井南谷 抽象書(Abstract Calligraphy)」と題した個展を開催した。南谷の渡米から、サン・フランシスコとニューヨークでの在米生活が1年過ぎたころであった。

このミーチュウ画廊での最初の個展に際して、カタログ序文を寄せたのは、アン・オハンロンであった。

アンのカタログ序文

私の最近の日本への研究旅行で、表現の分析に素晴らしい光明を与えてくれた或る一人の男に出会ったことは、私の最大の幸運であった。その表現は、とりわけ東洋的であると同時に、国の東西に関わらぬ極めてユニバーサルなものであった。彼の行った書道の最初のレッスンで、私にはそれがはっきりと分かった。

ちょっぴりユーモアと単純率直なセンスをもつ比田井漸という男は、彼の自国でも外国でも、こうした抽象にほとんど触れたことのない人々に、この本源的な芸術の新たな理解と認識を広めることに打ち込んでいる。この理念は彼の傑出した父から始まった。

彼の教育範囲を拡大し、西洋の独自の表現方法を彼が学ぶために、私たちがこの国に比田井を招待したところ、彼は貴重な書道の法帖と多数の古碑の原拓を携えてきた。それらは書道が時と所に適合してきた多様な展開を示している証拠であった。

藝術家、比田井南谷(日本では、書家は雅号を用いる)は、その〔書の古碑帖の〕研究を教育に繋ぎ、深い洞察力を生み出す〔線の〕純粋化と抽象化の鍛錬を奨励している。その鍛錬が、人間感情の極めて大胆で喚起力のある表現を実現する。それゆえ、彼の作品は、伝統的な書道に多く固着する愛国的地方主義の狭い限界を乗り越えているのである。

この普遍的な視覚言語は、現代にとって必然的なものの一つであると思われるが、まさに比田井〔南谷〕がそれに貢献している。

アン・オハンロン (ANN O’HANLON)
カルフォルニア、サン・ラファエル
ドミニカン・カレッジ 芸術学科 主任

ディックとアン・オハンロン


リチャード(ディック)・オハンロン Richard(Dick) O’Hanlon (1906-1985)

カリフォルニア州ロングビーチ生まれ。幼少期から芸術に親しみ、高校時代、美術学校へ入る資金を得るため様々なアルバイトをしながらオークランド博物館で最初の個展を開いた。高校卒業後5年間、色々な仕事とアルバイトをして(妻のアンと出会ったのもアルバイトをしていたカフェテリアであった)、サンフランシスコ・アート・インスティテュートで彼は彫刻、アンは絵を描いていた。1930 年代初頭に、ディックは、フリーダ・カーロ(Frida Kahlo)と結婚したばかりのディエゴ・リベラ(Diego Rivera)に出会い、今日サンフランシスコ・アート・インスティテュートに残る大規模なフレスコ画制作のアシスタントとして働いた。アンとディックは、共にリベラのもとでフレスコ画を学んだ。

アン・オハンロン Ann Louise Rice O’Hanlon (1908 – 1998)

ケンタッキー州アシュランドの生れで、幼い頃から美術の才を示し、ケンタッキー大学の芸術学士を得た。カリフォルニア美術学校で2年間の大学院の間、ディックと知り合い、1934年に結婚、ケンタッキー州に移転した。アメリカの大恐慌の時代に、失業した芸術家に仕事を提供するため、米財務省はケンタッキー大学の記念ホールにフレスコ画を作成するプロジェクトを計画し、アンに依頼した。19世紀の奴隷解放による開拓から始まるケンタッキーの歴史を描く縦2.4メートル横12メートルのフレスコ画であった(1934年に完成)。フレスコ画はアフリカ系アメリカ人の奴隷のロマンチックな描写のために注目を集め、繰り返し否定的に評価されて、現在、フレスコ画は壁に覆われている。その後、アンはカリフォルニア州サン・ラファエルの ドミニカン・カレッジの芸術学科で美術教師となった。

アンとディックは1940年代から、新たな表現や自分の芸術に対するインスピレーションを求めて、世界中を旅した。最初はメキシコ、ヨーロッパからインド、ネパールへ、のちに中国や日本まで足をのばした。

1942年、オハンロン夫妻はカリフォルニア州マリン郡ミルヴァレーで 酪農場を購入し、それをアートスタジオとした。ディックは熱心な庭師であり、彼の庭はシンプルで魅力的な建物の周囲に、彫刻や世界中の岩石採石場で発見された様々な石が配置された。さらに夫妻は、他のアーティストたちに土地と建物を開いた。ディックは、1947年カリフォルニア芸術・工芸カレッジ (California College of Arts and Crafts) で教員として招かれた。1948年にカリフォルニア大学バークレー校に移り、1973 年に退職するまで彫刻の教授として学生に大きな影響を与えた。ディックの抽象彫刻の素晴らしい仕事には、カリフォルニア大学バークレー校の丘に立つ15フィート、16 トンの彫刻、「Sunstones IIサンストーンⅡ(日長石)」がある。太陽系の中の地球の位置の感覚を人々に回復させ、数百年間のカレンダーとしての機能をもつ彫刻である。

Sunstones II (Lawrence Hall of Science)

「視覚・洞察アートセンター(Sight&Insight Art Center)」

アンはドミニカン・カレッジの芸術学科で40年以上にわたり美術教師を続けた。その体験の中で、しだいに彼女は「教えてはならない」と気づき始めた。耳を澄ませ、尋ね、触れさせ、何よりも(自分の主観的な好みを忘れて)客観的に人々の作品(営み)と自然の世界とを知覚する(感覚器官を通じて外界の事物を見分け捉える)ことが必要だと気づいた。学生が理解できないのは、彼らが「見る方法how to see」と「注視する方法how to look」を知らないからだという事実に気がつき、「視覚体験(Visual Experience)」のためのオリエンテーションというコースを設置した。1969年、オハンロン夫妻は敷地内に「視覚・洞察アートセンター(Sight&Insight Art Center)」を設立した。知覚する能力は、読むこと・見ること・話すこと・瞑想することよりも多くを必要とする。オハンロン夫妻は、学生や他のアーティストたちと創造性を目指す活動を始めた。

1973年にディックはカリフォルニア大学バークレー校を退職し、芸術活動に専念したが、1985年6月25日にミルヴァレーで死亡した。 アンは「視覚・洞察アートセンター」を活動の中心とし、創造的なプロセスを体験させ、その意味と観察、調査・実験を通して創造性の追求を継続して行った。アン・オハンロンは1998年に死亡した。その成果はアンの著書『見ること/知覚すること・・・アーティストの眼を通して世界を注視する』(2001年)(Seeing/Perception・・・Looking at the World through an Artist’s Eye by Ann O’Hanlon with photos by Ann & Dick O’Hanlon)にまとめられている。

Ann O’Hanlon portraits by Diana Peters

アンの死後、学生やアーティストたちは、二人の活動を受け継ぎ、様々なイベントやワークショップを行っている。この「視覚・洞察アートセンター」は、2004年、「オハンロン・アート・センター(O’Hanlon Center for the Arts)」に変更され、現在も毎年いくつかの特別なイベント、アートスタジオ、視覚芸術、文学、パフォーミングアート、ヒーリングアート、子どものプログラムと瞑想のプログラムを提供している。

南谷は1959年の最初の渡米以降、何度もアメリカに旅行している。その都度、オハンロン夫妻と連絡を取っていた。最初のサン・フランシスコ滞在では、デヴィッド・コール画廊とM・H・デ・ヤング記念美術館で個展を開き、当地では大きな反響を招き、ニューヨークへの進出を促した。カリフォルニア大学バークレー美術館(比田井南谷オフィシャルサイト  美術館 参照)は1点収蔵、またオハンロン夫妻とデ・ヤング記念美術館には、贈呈を含めかなりの数の南谷の作品が渡っているという。


デ・ヤング美術館での個展
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