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比田井南谷レポートレポート   vol.8 1963年11月22日(金)

vol.8 1963年11月22日(金)

最年少の43歳で就任した第35代アメリカ合衆国大統領、ジョン・フィッツジェラルド・ケネディJohn Fitzgerald Kennedyは、在任2年10か月目の1963年11月22日、翌年の大統領選挙キャンペーンとしてテキサス州を訪れ、ダラスに到着して市内をオープンカーでパレード中に、多くの市民が見ている前で何者かに狙撃され死亡した。

その時、長女キャロラインCarolineは6歳の誕生日をむかえる5日前で、ワシントンのホワイトハウスで無邪気に遊んでいた。

その時、バラク・オバマBarack Obamaはハワイ、ホノルル生まれの2歳であった。この年、両親は別居し、バラクは母親のもとに引き取られていた。

その時、ドナルド・トランプDonald Trumpはニューヨーク生まれの17歳だった。13歳まではフォレスト・ヒルズ地区の学校に通っていたが、素行不良のためニューヨーク・ミリタリー・アカデミー(陸軍幼年学校の1つ)に転入させられていた。

その時、69歳のソヴィエト連邦首相(共産党第1書記)ニキータ・フルシチョフNikita Khrushchëvはモスクワにいて、独裁的な権力集中と対アメリカ政策の妥協に対して不満を持つ反フルシチョフ・グループが追い落としを準備していたことに気づかなかった。

フルシチョフはケネディと対立し61年に「ベルリンの壁」を築き、62年にはキューバにミサイル基地を設置した。ソ連の貨物船が核ミサイルと戦略兵器などを密かにキューバへ運搬しようとしたとき、ケネディは強硬策に打って出て、キューバ海上を封鎖し、核ミサイル基地撤去を迫った。フルシチョフはケネディに書簡を寄せ、「世界核戦争のどん底に突き落とす攻撃的行動」で「海賊行為」であり「封鎖を無視する」とした。ソ連の貨物船が海上封鎖を突破しアメリカ軍がこれを撃沈した場合、即座に全面戦争となり、核戦争の勃発の危機が高まった(10月24~26日キューバ危機と呼ばれる)。フルシチョフは妥協してキューバからミサイル基地を撤去した。この危機を教訓として、核戦争を回避するため両国の首脳間を結ぶ緊急連絡用の直通電話ホットラインがソ連とアメリカ間に初めて設置された。そして1963年8月に部分的核実験禁止条約が締結されて、ソ連とアメリカとは「敵対的平和」の状態に入っていた。

その時、67歳の岸信介は、1960年の新安保条約の批准をめぐる混乱の責任を取って第57代内閣総理大臣を辞職し、衆議院議員にとどまっていた。1963年の第30回衆議院選挙では娘婿の安倍晋太郎(安倍晋三の父)が出馬したが落選、地元山口県での影響力の低下が取りざたされていた。

11月22日は日本時間では11月23日であり、日本では「勤労感謝の日」の祝日だった。日本は大戦後の荒廃を、「平和憲法」の下で1950年の朝鮮戦争特需によって復興した。1955年からは年平均10%以上の経済成長を達成し、神武景気、岩戸景気を経て、1963年には翌年の東京オリンピックを迎えて好景気に沸き、東海道新幹線や高速道路といった大都市間の高速交通網も整備されていった。

その時、中学2年の14歳の少年は、兄といっしょに東京、京橋のシネラマ映画館「テアトル東京」で『アラビアのロレンス』を見るため、数寄屋橋を歩いていた。新聞各紙が号外を出し、歩行者に配布していた。少年は号外というものを初めて目にし、「ケネディ大統領暗殺される」という見出しの活字の大きさに驚いた。

その時、少年の姉たちはアメリカ、カリフォルニア州モハビ砂漠の様子を日本のテレビで見ていた。通信衛星を使って日米間を結ぶテレビ中継実験が成功、1万4000キロの宇宙空間を通じた衛星放送の始まりであった。予定されていたケネディ大統領のメッセージの代わりに放送されたのは、大統領暗殺のニュースだった。

その時、51歳の比田井南谷はニューヨークにいた。1963年秋、南谷はニューヨークのミーチュー画廊での2回目の個展のため再渡米していた。

南谷の11月26日付の妻、小葩宛エア・メール

 ケネディが殺されて米国は大騒ぎになった。これが国際問題にでもなったら大変だったが、その続きが、ダラスの男が暗殺者に仕返しをして終末(注)という、またいとも単純な結末であった。月曜日(25日)はケネディの葬式で官公庁、商店等全部休業。ニューヨークは死んだように静かになった。お蔭で僕のレクチュア(アジアハウスでやる予定。ジャパン・ソサエティ主催)も延期になった。次の月曜日にやることになった。
 この数日間、ラジオにかじりついて事件を詳細に知ることにつとめた。昨日は米国の喪中あけ。途端に、またガタガタ街が忙しくなった。人々は昨日のことは忘れたように、目の色変えて仕事をはじめる。株は上がり、ラジオのコマーシャルはやかましくドナリたてる。

同時期に小葩に宛てたエアメール

小葩宛エア・メールの写真

1959年の秋から1年半にわたった最初の渡米で、南谷は欧米人の書に対する理解が誤解に満ちていることを痛感した。特に、日本通の知識階級において、禅思想の影響で「無心に筆を振るえば良い書になる」と信じられていることに憤りを感じた。書の伝統は4000年の歴史を持ち、その書の歴史の正確な理解と古典名品の鑑賞の仕方を教えることが必要だと確信した。そのため、渡米前から準備を重ねてきた「中国書道の古典の鑑賞の仕方」の原稿を、ジャパン・タイムズの記者エリーゼ・グリリの協力を得て、英文に翻訳しつつあった。

 この1963年の2回目の渡米では、「書の歴史と鑑賞の仕方」をニューヨーク及び周辺の教育機関でレクチュアすることを計画していた。そのため、簡潔な講演原稿を英文にまとめ、ラトガース大学、リーハイ大学、ブルックリン・カレッジ、コロンビア大学、サラ・ローレンス・カレッジ、メリーランド研究所、ジャパン・ソサエティー(ニューヨーク)で講演を行う予定であった。南谷は英文原稿をミーチュー画廊主、のネッド・オーヤング(欧陽可宏)と一緒に、時には徹夜までして自然な英文になるよう手を入れていた。

講演
講演原稿

異なる文化、異なる伝統を理解することは、単にその知識を得るということではない。また、その異質さを許容したり、寛容心をもって受容したり(耐え難いことintoleranceを我慢することtolerance)することでもない。自分にとって好きな、あるいは好都合な部分だけを採用する、またそれと反対に、気に食わないものを優位な立場から施しを与えるように容認することは、理解ではない。異なる文化を理解することは自己の文化を自覚することであって、他者と自己との根底に深化していくことである。

南谷は、父天来が行ったように、中国古典名品の臨書を重視した。臨書は単純に古典を模倣するだけではない。他者としての古典を繰り返し模倣する、さらには、自己にとって耐え難い異質なものも模倣しなければならない。その筆の運びの鍛錬が他者と自己との根底、すなわち、「人間性」を表現するものとなる。書はそのような「鍛錬された線の表現」だと南谷は確信していた。書は東洋独自の文化であり、その独自性を西洋にないエキゾチックな魅力として紹介することを南谷は嫌った。「線表現の芸術」として書を捉えることは、「輪郭を色で塗る」絵画芸術に勝るとも劣らない人類の表現芸術であった。原理的に墨と筆と紙を用いて「鍛錬された線」の持つ表現性の芸術として、西洋の人々に語りかけたのであった。

1963年11月20日、ブルックリン・カレッジでの南谷のレクチュアに対しての礼状

比田井様

もちろん、あなたご自身でもお分かりのように、ブルックリン大学でのあなたの講演は大成功でした。あなたのプログラムはこの大学で、過去十数年以上の間で最も刺激的な出来事でした。学生たちは今後長い間、これについて語り合うことでしょう。

私は一週間ロスアンゼルスに行かねばなりませんが、帰ったらお電話します。もう一度、どうもありがとう御座いました。あの時に、ブルックリン大学のギャラリーか美術館で、あなたの作品を展覧したらよかったのですが、いつか実現したいと思います。

私は言葉で言いつくせない程、あなたの個展が気に入りました。   拝具
                                   アド・ラインハルト

アド・ラインハルトの礼状

                                

*注: ケネディを乗せたリムジンがエルム通りに入ったとき、教科書倉庫ビルの6階からライフル銃で狙撃されたとされる(12:30)。犯人とされたリー・ハーヴェイ・オズワルドは13:50に逮捕された。オズワルドは2日後の24日ダラス市警察本部から拘置所に移送される際に、警察本部の地下通路で、ダラス市内のナイトクラブ経営者ジャック・ルビーによって射殺された。なお、この現場はアメリカ中にテレビで生中継されており、数百万のアメリカ人が映像でこの瞬間をリアルタイムに見た。ルビーは死刑判決を受け、4年後の1967年、獄中で病死した。

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