季節に映ることば
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老子のことば

比田井和子

わずか五千字の中に、深遠な哲学が説かれている『老子』。便利さだけを追いかける現代人に、「それでいいのか?」と問いかけることばの数々は、書や篆刻の作品にも取り上げられてきました。伊藤文生編『作品に書きたい老荘のことば』から抜粋します。

最初の図版は「老子」のことばを使った篆刻作品です。
呉昌碩の「明道若昧」は、下のことばがもとになっています。

明道若昧、進道若退、夷道若纇。
上徳若谷、太白若辱、廣徳若不足。
建徳若偸、質真若渝、大方無隅。
大器晩成、大音希聲、大象無形。

明道は昧(くら)きが若(ごと)く、進道は退くが若く、夷道は纇(ライ)の若し。上徳は谷の若く、太白は辱(よご)れたるが若く、広徳は足らざるが若し。建徳は偸(トウ)なるが若く、質真は渝(か)わるが若く、大方は隅無し。大器は晩(おそ)く成り、大音は声希(かそけ)く、大象は形無し。

真に明らかな道は暗いように見え、進む道は退くように見え、平らな道はでこぼこに見える。最上の徳は低い谷のようであり、真に潔白なものは汚れて見え、広大な徳は足りないように見え、確かな徳は不安定でいいかげんなものに見え、質実な徳は無節操に見え、真の方形には隅(かど)がない。真に大きな器は完成がおそく、大きな音声は聞き取れず、大きな形象は姿をもたない。

呉昌碩の二つ目の印は「大弁若訥」

大直若屈、大巧若拙、大弁若訥。
大直は屈するが若(ごと)く、大巧は拙なるが若く、大弁は訥(トツ)なるが若し。
本当に真っ直ぐなものは錯覚によって屈曲しているように見えるもので、巧妙な神技は小細工など用いないため見かけはへたに見え、すぐれた雄弁家はべらべらとしゃべらないので口べたのように聞こえる。超絶技巧は凡俗な感性によって把握できない。

続いて河井荃廬の「曲則全」。

曲則全、枉則直。
曲がれば則ち全く、枉(オウ)なれば則ち直なり。
「枉」は曲げるの意。曲がれば全うされ、曲げれば真っ直ぐになる。曲がった木は切り倒されることなく天寿を全うするように、真っ直ぐにつっぱらず曲げてこそかえって結果的には真っ直ぐとなれる。

石井雙石が刻した「無為」は、『老子』の根幹となることばです。

無為而無不為。
無為にして為さざる無し。
無為の境地に達すれば為しとげられないことはなくなる。

二世中村蘭台のライフワークの一つが「老子語印五十顆」です。そこから三点をご紹介します。
左の「大象無形」は、今回の最初のフレーズにありますので、次の「天長地久」。

天長地久。
天は長く地は久し。
天地は永久に存在する。それは、天地みずからは生きようという欲望などをもたないから。

右端の「和光同塵」は、いろいろな場面で使われることばです。

和其光、同其塵。
その光を和(やわ)らげ、その塵に同ず。
智慧の光を弱めて、塵のような混沌たる世界と一体になる。「和光同塵」として知られる。

園田湖城の「知足」も有名なことばです。

禍莫大於不知足、咎莫大於欲得。故知足之足、常足矣。
禍(わざわい)は足るを知らざるより大なるは莫(な)く、咎(とが)は得んと欲するより大なるは莫し。故に足るを知るの足るは、常に足る。
災禍では満足を知らないことが最大であり、罪としては獲得しようという欲望以上のものはない。だから、満足することを知っている者の満足は常に変わらず永遠に満足している。

山田正平の「谷神不死」。

谷神不死、是謂玄牝。
谷神(コクシン)は死せず、是れを玄牝(ゲンピン)と謂う。
谷間の神は死ぬことがない、これを玄牝(奥深い女性)という。「谷神」とは、産道を神秘的に表現したもので、万物を生み出す「道」の比喩。

続いて、現在篆刻美術館で展覧会が開催されている韓国の篆刻家、高石峯です。「大象無形」が入ったフレーズは、最初にご紹介してありますので、「知者不言」。

知者不言、言者不知。
知る者は言わず、言う者は知らず。
よく知られている言葉。よく知っている人は、やたらにしゃべらないものであり、べらべらしゃべる人は実は知らないのだ。

次は書の作品です。手島右卿先生の屏風は「道法自然」。

人法地、地法天、天法道、道法自然。
人は地に法(のっと)り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る。
人間(の代表である王)は大地の上に生活し、大地は天に規定され、天は「道」のはたらきによる。そして「道」は自ずからそのようである、あるがまま自然に存在している。

作例はありませんが、ほかにもこんな味わい深いことばがあります。

上善若水。水善利萬物而不争。
上善は水の若(ごと)し。水は善く万物を利して而も争わず。
最上の善とは、水のようなもの。水は万物に恩恵をもたらし、しかも争わない。高い地位を求めることなく、低いほうへと自然に流れていく。

功成名遂身退、天之道。
功成り名遂(と)げて身退くは天の道なり。
功績を挙げて名誉を得たら引退する。それが天の道というものだ。

埏埴以為器。當其無、有器之用。
埴を埏(こ)ねて以て器を為(つく)る。其の無に当たりて、器の用有り。
粘土をこねて作る器の、粘土の無い部分こそが器として役立つ。無の用。

絶學無憂。
学を絶てば憂い無し。
学問をやめれば憂いは無くなる。だから、学問をやめようというのではない。人が学ぶことは必然であって、憂いは避けがたい。この句を踏まえた詩句としては、蘇軾の「人生識字憂患始(人生 字を識るは憂患の始め)」が知られる。人は努力するかぎり悩むに決まったものだ、という。

下士聞道、大笑之。不笑、不足以為道。
下士は道を聞けば、大いに笑う。笑わざれば以て道とするに足らず。
(上士は道を聞くと、それを実践しようとし、中士は道を聞くと、半信半疑。)下士は道のことを聞くと、大笑いする。下士に笑われないようでは道ではない。

甚愛必大費、多藏必厚亡。
甚だ愛すれば必ず大いに費(つい)え、多く蔵すれば必ず厚く亡(うしな)う。
愛しすぎるときっと消耗が大きくなり、多く貯蔵してあればきっと失う物も多い。貧乏であれば失う物も少ない。何も持たなければ失う心配は無い。「愛」するとは、物に執着すること。

大直若屈、大巧若拙、大辯若訥。
大直は屈するが若(ごと)く、大巧は拙なるが若く、大辯は訥(トツ)なるが若し。
本当に真っ直ぐなものは錯覚によって屈曲しているように見えるもので、巧妙な神技は小細工など用いないため見かけはへたに見え、すぐれた雄弁家はべらべらとしゃべらないので口べたのように聞こえる。超絶技巧は凡俗な感性によって把握できない。

禍莫大於不知足、咎莫大於欲得。
故知足之足、常足矣。
禍(わざわい)は足るを知らざるより大なるは莫(な)く、咎(とが)は得んと欲するより大なるは莫し。故に足るを知るの足るは、常に足る。
災禍では満足を知らないことが最大であり、罪としては獲得しようという欲望以上のものはない。だから、満足することを知っている者の満足は常に変わらず永遠に満足している。

大道甚夷、而民好徑。
大道は甚だ夷(たい)らかなるに、民は径(こみち)を好む。
大道はまったく平坦であるのに、人は脇道へそれたがる。

知者不言、言者不知。
知る者は言わず、言う者は知らず。
よく知られている言葉。よく知っている人は、やたらにしゃべらないものであり、べらべらしゃべる人は実は知らないのだ。

千里之行、始於足下。
千里の行は、足下より始まる。
遠い旅路も足もとの第一歩から始まる。どんな遠大な事業も身近なところから始まる。千里の道も一歩から。

天網恢恢、疏而不失。
天網恢恢(テンモウカイカイ)、疏にして失わず。
天の張る網は目が粗いようでも、悪人を漏らすことはない。

信言不美、美言不信。
信言は美ならず、美言は信ならず。
真実の言葉は美しくない。美しい言葉は信用できない。

この竹簡が書かれたのは紀元前300年と言われています。楚の時代の竹簡は近年たくさん発見されるようになり、研究も進んでいます。見知らぬ字形は親しみにくいものですが、流れるような美しい形と繊細な線は、とても魅力的です。

     
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