何期須傳
北川博邦
北川博邦

「何期須傳」の由来

森銑三色紙

森銑三 色紙

 

先師森銑三先生はダジャレが大嫌いで、「ダジャレなぞ言う人は頭が悪い」とよく言っておられた。となると私なんぞは森門下でもっとも頭のわるい者ということになってしまう。先生はさらに「三村さんはそのようなことはけっして口にせられなかった」とも言われた。コレ、ホントカナ。

 

三村さんとは、三村竹清である。私は御目にかかったことがないので知らないが、この人ダジャレが大好き、口にせられなくとも、筆にしたものは今に少なからず傳わっている。菓子屋の額に篆書で「雲満窓(ウマソウ)」と書いたり、昭和十九年の末に戦災を避けるために伊豆の片田舎に疎開し、そのため翌二十年の正月には餅を食えなかったので「茂竹庵(餅くわん)」とその僑居に題し、終戦となり二十一年の正月には餅を食うことができたので、「茂竹塢(餅食う)」と改称したなど、この手の話はいくつもある。そのダジャレが最もよく発揮されたのは、書名や文章の題である。短い雑文の題が「安南雲迷」。これは穴埋めである。江戸時代の書物などに関する文章を集めた著者の名が「本の話」。この「本」は書物の意味と、「ほんの少し」「ほんのつまらぬ」とをかけている。雑文集の書名が「佳気春天」。これを仮名として読めば(かきすて、書き捨て)となる。

 

このように竹清老のダジャレは枚挙に暇がないほどである。そこで私も少しそれにならってふざけた題名をつけてみることにした。今までに用いたものは、

何期須傳(かきすて)。書き捨てであるのだから、「何ぞ須く傳ふべきを期せん」というわけである。

毫末加新(ごまかし)。文字点画の末に拘りながらも、今まで誰も気のつかなかったことを書いた。つまり「毫末に新しきを加ふ」である。

阿難有迷(あなうめ)。つまらぬよた話を書いて穴埋めをする。そんなものを読んだら、釈尊の弟子の中で智者をして知られた阿難尊者ですら、はて何のことやらと迷うであろうというわけ。

飛鳥古都(ひとりごと)、はじめは私一人で勝手な言いたい放題を書いていたのだが、ちと目に餘るというので、途中から他の人が書くことになり、この題はとられてしまった。さてこの次は

非可糊塗(ひがごと、僻事)なんて題を使うとしようか。

 

以上の私のダジャレは、それなりに内容を表わすような字をあてたつもりである。だから竹清老のダジャレよりもマトモなダジャレ(そんなものあるのかな)のつもりである。

 

というわけで、上先づは題名の由来を一くさり。次回からどんなことになるやら。バカいいかげんにしろ、なんて言われるかも知れないが、そこはそれ、頭が悪いのだから、どうにもしかたあるまい。

 

さて、話を森先生にもどそう。先生は時として「木菟」と自称されたことがある。木菟はみみづく、単に「づく」ともいう。なぜ「づく」なのかというと、先生の名の銑三の銑もまた「づく」であるので、これを通わせて称したのである。これはまさにダジャレである。してみると、私は必ずしも頭が悪いというわけでもなさそうである。

 

森銑三先生の色紙

何か図版になるような物を出せと言われて、さてと考えたところ、森銑三先生の色紙があった。

今から五十数年前、森先生に色紙の揮毫をお願いしたら、先生は「わたしはこういうものは頼まれても書かないことにしているのですが、あなたに頼まれたのでは仕方がない」と言われた。

私は当時聞きかじりで、色紙の揮毫を依頼する時は、書き損じの分を含めて複数枚用意しなければならないというので、五枚持っていったところ、なんと先生は五枚全部書いてくださった。まことに望外のことであった。そこで知人に分け与えて大いに喜ばれた。

そんなわけで、森先生の色紙は世に稀なる珍品なのである。