2007年11月 1日

第10回 明治・維新の残映


大久保公哀悼碑
 明治11年5月14日朝、赤坂紀尾井町で大久保利通は石川県士族らの凶刃に倒れた。麹町三年町(現霞ヶ関)の大久保邸から仮御所のあった赤坂御所に出勤 する途中、二頭立ての箱馬車ごと襲われたという。この辺りは、紀州藩、尾張藩、彦根藩(井伊)の屋敷があったところで町名はそれに由来するが、人気無く寂 しいところであったらしい。
 ホテルニューオオタニと赤坂プリンスホテルの間にある清水谷公園(紀尾井町2)の中程に「贈右大臣大久保公哀悼碑」がある。優に高さ5メートルはある仙台石にの巨碑である。


贈右大臣大久保公哀悼碑

 墓と有名な「大久保公神道碑」は青山墓地にあるが、遭難現場近くのこの地に、碑は明治17年に建てられた。表は、三条實美が碑題を楷書で揮毫し、上下に龍の線刻が施されている。碑陰は、重野安釋の撰文を金井之恭が書している。刻者は、廣群鶴。
 明治10年9月に西南戦争が終結した僅か一年足らず出来事である。享年49歳であった。大久保は、内務卿として明治政府を主導し、近代国家建設の礎を築 いた人だが、それ故に、士族達の反感も強かった。昨今は、「官僚主導政府の原点」と言う人もいるが、それだけ近代国家への脱皮に意欲を燃やした人だったの であろう。


大久保公哀悼碑碑字

金井之恭(天保4・1833年〜明治40・1907)は、画家金井烏洲の末子として上州(現境町)に生まれた。長じて、新田勤王党・新田官軍に身を投じ、 勤王の志士として奔走したが、維新後は内閣書記官、元老院議官、錦鶏間伺候、貴族院議員などを歴任した。書は、巻菱湖の四天王の一人である中澤雪城にに師 事したが、師亡き後は、専ら欧陽詢、■遂良、顔真卿、柳公堅などの古法を学んだといわれる。 明治政府最大の功労者であった大久保公哀悼碑の碑文を書いて、いっそう有名になり書は人気を博したと言われる。碑文は雄渾な楷書である。


贈正四位江藤新平君遭難遺址碑
 明治政府の要として、佐賀(鍋島)藩を代表した江藤新平の遭難記念碑(霞が関3−8・外堀通り沿いの小公園)が地下鉄虎ノ門駅③出口のそばにある。明治 2年12月、藩政改革の恨みから、同じ佐賀藩の下級武士達に襲われたのだという。江藤は、後に明治政府初代司法卿、参議を務め、政府の中枢を担ったが「征 韓論」で下野し、士族達に担がれて「佐賀戦争」を起こし斬首された。 明治7年(1874)のことである。享年41歳。「佐賀戦争」に際しては、大久保利通が直接出向いて事に処したといわれ、「佐賀戦争」から「西南戦争」に 至る時期が、明治国家の確立にとって、いかに重要な時期だったかが解る。
 明治政府にとっての「賊」、江藤の名誉が回復するのは明治22年のことだというが、晴れて遭難碑が建てられたのは、大正5年(1916)である。名誉回 復への長い道のりである。「懐舊表情」の篆額は、土方久元。碑文は、股野琢撰書。端正な楷書である。股野は藍田と号し、帝室博物館長などを歴任した。(天 保9年・1838〜大正10・1928)。


江藤新平遭難碑と江藤新平遭難碑碑字

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